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〈第31回在日朝鮮学生「コッソンイ」作文コンクールから〉 中級部 2年 散文部門1等

「その日」

 朝鮮の国旗がはためく空の下、親たちは大声で子どもたちに声援を送り、子どもたちは応援しながらおしゃべりをしている。

 「バン!」

 スタートのピストル音が鳴ると、一斉に駆け出す幼い子どもたち!

 私の母校―滋賀朝鮮初級学校では今、運動会が盛んだ。

 皆が笑い、わいわいにぎわっている。

 (あぁ、やっぱり学校はゆかいに笑うところ! もう『その日』を乗り越えているんだ…)

×     ×

 私は京都中高に通う中学2年生!

 ウリハッキョの体育祭も終わり、一息ついているところに、母校の滋賀初級の運動会を手伝いに来ないかとの知らせが届いた。

 そんなに大事なこと、私が抜けるわけがない。

 久しぶりに訪ねた母校はとても温かかった。そして、にぎわっていた。元気な後輩たちの顔、みんな幸せそうな顔だった。

 でも、私は? …たぶん他の子たちとは少し違ったかもしれない。

 こんなに幸せな今日の運動会からは想像もできない「その日」の記憶が、生々しくよみがえってきたからだ。

 「その日」は、私たちの顔から「笑い」を奪った日だった。

 2年前の1月28日。

 「その日」は、この国で「正義と呼ばれている警察」が汚い土足で私たちの滋賀初級に踏み込んできた日だった。

 冬なのに暖かい日差しが染み入るような静かな日曜日の朝。

 5人家族が一緒に遅い食事をしていたとき、1本の電話がかかってきた。

 オモニは、「えっ…!」と言って受話器を握ったまま絶句していた。

 私はその沈黙の時間を待てなかった。

 「誰から?」

 「学校に警察が押し入ってきた…」

 血の気の引いたオモニの口から出た一言。

 私は何が何だかわからなかった。頭の中を整理できなかったのだ。アボジ、オモニが急いで出て行ったのもわからなかった。

 しかし、時間が経てば経つほど、何が起きているのかを知るほど、憤り、恐怖、悲しみ等々、いろんな感情が複雑に絡み合って泣くしかなかった。

 「その日」、アボジとオモニが帰ってきたのは夕方遅い時間だった。

 ひどく疲れた様子で帰ってきたオモニは、その時の状況を話してくれた。

 たくさんの警官が教員室や教育会室、教室に押し入ってめちゃくちゃにし、あちこちから書類を引っぱり出して持って行ったとのこと、そして、130人を越える機動隊がウリハッキョの周りを取り囲み、同胞たちはどうにかして学校に入ろうと頑張ったけど、その都度警官らに殴られたという。後でその時学校で撮った写真とビデオを見たけど、それはあまりにもひどかった。

 機動隊と向き合って抗議の声を上げる同胞たち、同胞たちを暴言と暴力で押さえ込もうとする棍棒を持った警官、警官に取り囲まれた愛するわが母校…。

 当時6年生、12歳だった私にとって、それはあまりにもショッキングな出来事だった。

 「その日」から私たちは闘った。

 12歳の私の胸のうちをそのままプラカードに書き、集会にも参加し、抗議の手紙も送った。当時、オモニ会の会長だった私のオモニも、昼夜集いに参加して抗議文を読みあげた。

 神戸までオモニと一緒に行ってデモに参加したときのことだ。

 署名運動をする私にあるハルモニが近づいてきて、私の手をぎゅっと握ってした話を、私は多分永遠に忘れられない。

 「私があなたたちくらいの時も4.24事件が起こって、今のように署名運動をしたのだよ。その時から数十年が経った今も、日本当局は同じことをしているんだね…。でも、負けずに闘わなくてはいけないよ」

 4.24教育闘争…。その時は深い意味もわからずにただ記憶の中に留めておいた言葉だった。

 しかし、4.24教育闘争から60年が過ぎた今日も、「やつら」は、変わることなくウリハッキョをなくそうとしているのだ。

 私は信じられなかった。

 デモではのどが張りさけそうなほどシュプレヒコールを叫び、同胞たちの力強い勢いを全身で感じた。それでも私の心の傷は全然いえなかった。

 当時3歳だった私の妹の傷はさらに大きかった。朝、通学バスが迎えに来ると、うれしそうに笑いながらバスに乗っていた妹が、「その日」からバスが来ても乗ろうとしないばかりか、仕方なく乗った後も泣きながらオモニをずっと探していた。絶対行かなきゃならないのかと聞くように…。

 ある夜、その妹が眠れないといってオモニを探した。

 「オンマ わたし がっこうに いきたくないの けいさつが くるから うちにも けいさつが くるの? こわくて ねむれないよ」

 泣きながら「抗議」する妹を見るオモニの目からは涙が流れ落ちた。

 そして私と妹をぎゅっと抱きしめながら言うのだった。

 「あなたたちの学校は、オンマが守ってあげるから心配しないで」と。

 オモニのその言葉に、私もどれほど安心して大きな力をもらったかしれない。

 その時まで私もやっぱり布団の中で涙を流し、眠れない日が続いていたからだ。

×     ×

 活気に満ちた運動会を眺めながら私は、同胞たちがだんだん「その日」を乗り越えて行っているように思えた。

 それでも私は「その日」を乗り越えられず、長い間苦しんでいた。

 日本人すべてが「敵」に見えたり、そればかりかオモニと妹が近所の日本人と話している姿すら見るのがいやな時もあった。

 電車の中やどこででも、時おり「その日」が思い出されるといつも泣きたい気持ちになった。

 忘れようとも思った。

 しかし、「その日」は「忘れてはならない」のだ。いや、「忘れられない」のだ。

 「その日」は、その事実を、その真実を知らせることが、「その日」を「経験」した私たちの、そしてわたしの義務だと思う。こんなことが2度と起こらないように、2度と警察が押し入ることのないように守っていかなくてはいけない。

 私は「その日」をきっかけに、ウリハッキョに通う意味をもっと深く考えるようになった。また、平凡なウリハッキョの生活が何よりも大切だということを切実に感じるようになった。

 滋賀初級に押し入ってきた警察とそれを指揮した人たちに、私が善良で堂々としたチョソンサラムになって「見返してやる」と胸の中で固く誓うようにもなった。

 日本で暮らしていてもチョソンサラムらしく、何者にも負けない立派なチョソンサラムになるために、私はウリハッキョに通い、ウリハッキョを最後まで守っていきたい。

(京都朝鮮中高級学校 朴淳姫)

[朝鮮新報 2009.2.27]