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〈遺骨は叫ぶ-23-〉 北海道釧路・雄別炭鉱

特高警察が監視、骨折すると治療せず切断 待遇改善求めて集団的抵抗

 

閉山のときに会社が建てた碑

 北海道釧路市街から約40キロ離れた阿寒川支流の舌辛川(現在は釧路市に編入されたが以前は阿寒町)の上流に、豊かな産炭地があることは早くから知られていた。しかし、運搬の条件にはばまれて本格開坑は遅れていた。最初に採掘したのは1896年で、石炭は船に積んで舌辛川を下り、3日がかりで釧路に着いたという。冬は川の結氷を利用してそりで運んだが、困難な輸送が隘路となり、10年ほどで中止している。

 1933年に北海炭鉱鉄道株式会社が設立されて採炭を開始すると同時に、雄別炭鉱−釧路間に鉄道を敷設する工事に着手した。2年後に開通し、鉄道で送炭がはじまったが、大戦後の不況で経営が悪化し、1938年に三菱鉱業に買収され、社名を雄別炭鉱と変更した。しかし、日中戦争の拡大で雄別炭鉱でも増産体制を進めたが、戦争が激しくなるにつれて働き盛りの若い坑夫が次々と出征して労働力が不足し、出炭能力は低下して1941年を頂点に出炭量が落ち込んだ。雄別炭鉱では北海道内外から集めた鉱山勤労隊を入山させ、坑内でも働かせたがそれでも労働力が不足して出炭は増加しなかった。石炭が不足して操業を停止する工場がでたり、女子の坑内労働の許可を厚生省命令で出したりした。

 1939年7月28日に「朝鮮人労務者内地移住に関する件」の内務・厚生両次官通牒がでた。3カ月後の10月中旬には500人が釜山〜小樽の海路で日本に着くと雄別炭鉱に運び、第1〜第4至誠寮に収容した。いかに労働力の払底に泣いていたかがわかる。

 

立派な道路の奥に炭鉱跡があるのに通行止めにしている

 さらに11月上旬には2回に分けて171人が、今度は経費や石炭不足の関係から陸路がとられ、関釜連絡船で日本に着き、鉄道で雄別炭鉱に運ばれた。炭鉱の日本人は「鮮人という言葉を使用させず、半島人、吾々を本島人と言わせ、全部挙手の礼をとらせる」と同時に、「特高警察が炭鉱の朝鮮人の生活のすみずみまで眼を光らせて監視をつづけ、アメとムチの両手段を行使して、生産増強に朝鮮人を酷使した」(「強制連行慰安婦・在韓米軍問題」)のである。地元の釧路新聞は11月9日に三段抜きの「太平洋・雄別両炭鉱共/増炭成績は良好/空知、石狩地方炭田を凌ぐ」という記事を載せている。朝鮮人連行者が炭鉱に着いて短期間にこれほど増炭成績を上げているのは、それだけ酷使されたということである。

 北海道新聞の1943年1月27日には4段抜きの見出しで「増産へ挑む砿夫/20カ月無休の半島人」という記事が載っている。20カ月も休みなしで、一日13〜15時間の重労働では体が保たないだろう。しかも、「ヘトヘトになった体でケガをしても、病院には内科の葛西先生一人であとは全然専門外の代診だけで、足を切ったり、キズを縫うのは全部代診氏がやっていたから、雄別では松葉杖を利用する人が実に多かった。ちょっと面倒な骨折は、全部切り落としてしまったからである。今、あの頃の手や足を切り落とされた朝鮮人は北朝鮮あるいは南朝鮮の空から、日本をどんな気持ちで見つめているだろう」(「雄別炭鉱労働組合 10周年史」)とは、ひどいことではないだろうか。

 新聞報道では1940年にも、陸路で朝鮮人が雄別炭鉱に来ている。だが、最終的にどれだけの朝鮮人が雄別炭鉱で働いたかは、資料がないのでわかっていない。いまも地元に残っている炭鉱関係者に聞くと、「まぁ1000人はいたと思うな」と言っていた。雄別炭鉱で働いた一日本人の回想では、「わたしのいたのは雄別170メートルのロングで 45人いたが、そのうちの日本人は8人位であとは全部朝鮮人だった……朝鮮人に対しては日本人以上にヤキが入れられた。タコとほとんど変わらなかった……戦時中でも朝鮮人の集団的抵抗があった。ことに尺別では18年(1943年)当時、全釧路の警察が動員された大きな抵抗があった」(「戦時中から昭和24年春までの北海道並びに全国的な炭鉱労働運動」)という。いかに朝鮮人が多かったかがわかると同時に、ヤキが入れられてタコと同じだったとは、虐待がひどかったということだ。それが度をこしていたので集団的抵抗をしたのだろうが、1939年の「特高月報」にも「日本人鉱夫の暴力行為と待遇改善でストライキ」が12月5日に発生したことが載っている。

 また朝鮮人の死亡やケガなどもわかっていない。ただ、北海道の戦時下朝鮮人労働関係年表には、2件の事故を記録している。1942年12月6日には雄別茂尻鉱で出水事故があり、7人死亡のうち朝鮮人2人。1943年7月13日にガス炭塵爆発で5人死亡のうち朝鮮人2人。あとはわかっていない。しかも、1944年8月に政府令で坑夫と一部の設備を九州の鯰田・上山田・飯塚の三菱系炭鉱へ転送した。石炭の海上輸送が困難になったことと、原料炭重点採掘鉄となり、雄別炭鉱がそれに適しなかったからだ。「朝鮮人のほとんどと、鉱員、職員の多数が家族を雄別に残して九州へ発った」(阿寒町史)。敗戦後に雄別炭鉱は操業を再開したが、朝鮮人は戻らなかったという。1970年に雄別炭鉱は閉山した。

 2008年9月、筆者は阿寒町に行き、鉱山がそのまま残っているという雄別炭鉱に向かったが、途中で通行止めになっていた。廃墟になった炭鉱跡を見せたくないのだろう。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.2.23]