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〈生涯現役〉 歯科医として60年 家族を支えた−崔道順さん

「夫の祖国は、わたしの祖国」

 朝鮮全土で3.1独立運動が沸き起こった90年前の1919年、中国東北地方吉林省延吉(旧間島省省都)で産声をあげた男子がいた。近代国家樹立をめざす守旧派政権打倒のクーデター、甲申政変で金玉均らを支援した父を持ち、兄もまた金日成将軍の抗日武装闘争に参加、後に日本軍によって殺されたという愛国者の家系。男子の名は崔因華さん(90)。

いまでも患者の診察にあたることがあるという崔さん

 その後、日本に渡り、朝聯、総連の運動に一貫して参加、在日本朝鮮人体育連合会会長、在日本朝鮮商工連合会理事長などの要職を歴任した。

 一方、日本の朝鮮への軍事支配がいよいよ露骨になり、中国への侵略が目前に迫っていた1926年。日本の元号が「大正」から「昭和」へと変わった年でもある。愛知県名古屋市中区の歯科医院に娘が誕生した。橋本道子さん。お手伝いさんのいる裕福な家庭の一人娘として何不自由なく育った。おおかたの親たちが貧しかったその頃、また女性が学問をするのに偏見の強かったその時代。日本では小学校を終えて女学校に進むのは、同じ世代の10パーセント程度に過ぎなかった。

 成長した道子さんは、一族がほとんど医者や歯科医という環境の中で、敗戦の前年、家業を継ぐべく東京・水道橋にあった東洋女子歯科医学専門学校(東洋大学の前身=創立は1926年)に入学した。当時日本には女子歯科大学は2校しかなかった。

 「中国、台湾、朝鮮半島出身の学生もいらして、寮生活も楽しかったですよ」と当時を振り返る。

 しかし、入学翌年の45年3月、東京大空襲によって、大学が半焼、再開されるまで名古屋の実家に帰ることに。そこで、運命的な出会いが待っていた−。

おさげ髪が印象的

夫の80歳の祝いに連れ立って祖国を訪問した

 学ぶために38年に渡日した崔さん。日本敗戦の年には、名古屋市にあった中島飛行場の機体工場で働いていた。そこで歯の治療のために、隣接していた橋本歯科に通うことに。偶然、そこにはちょうど帰省中の道子さんがいた。

 初対面の印象を崔さんは「おさげ髪が似合って、とてもかわいいな…」と、照れた。今から64年前の出会い。背の高さは1メートル80センチを超え、知る人ぞ知るダンディーな青年だった崔さん。とりわけ、道子さんの母が気に入り、二人は相思相愛の間柄となった。道子さんが大学を卒業し、歯科医師国家試験をめざし猛勉強中だったのを支え、励ましたのも崔さんだった。

 崔さんは解放後、朝聯埼玉本部や西部支部などで重責を担うようになり、ますます多忙を極めるようになった。朝鮮学校の敷地買収問題や学校開設に向けて不眠不休の活動が続いた。

 そんな最中、周囲の人たちの勧めもあり、二人は埼玉県川越市の料理屋で華燭の典をあげた。同胞たち約80人が出席、二人の門出を盛大に祝ってくれた。歯科医師国家試験にも合格、二重の喜びとなった。結婚と同時に道子さんは「崔道順」となり、新たな人生のスタートを切った。

隣家で匿われる

日本に2枚しかない東洋女子歯科医専に入学したころ

 結婚後落ち着く間もなく、道順さんは川越市の駅前の知人の家の2階を間借りして歯科医院を開業した。当初患者がつめかけ、席を温める暇がなかったという。48年、50年、57年と娘たちが相次いで誕生。その間、手狭になった医院の新築のため、駅前から少し離れた現在の場所に移り住む。今では末娘の明淑さんが歯科医院を継ぎ、孫息子が歯科大学に通う。しかし、83歳のいまでも請われて60年来の患者を診ることも。まだまだ現役である。

 30数年間、大宮にある埼玉朝鮮初中級学校の校医として一人で毎年約400人もの生徒の歯科検診を引き受けてきたが、「同胞歯科医らが自分の後を引き継いでくれているのが頼もしい」と話す。

 女性同盟結成以来、地域の活動家たちを笑顔で迎え、ずっと支援してきた。そんな道順さんにとって忘れられないできごとがある。朝鮮戦争中の53年、警察がスパイ容疑で家にいた夫を逮捕しようとしたことがあった。このとき道順さんのとっさの機転で、屋根伝いに夫は難を逃れた。隣家の日本人がそれからしばらく匿ってくれた、と目を潤ませる。

 10年前、夫の80歳のお祝いに祖国から招待され、初めて連れ添って平壌を訪れた道順さん。

 「夫の祖国は私にとっても祖国。一緒になって60余年。祖国と組織ひとすじに、夫は正しい道を歩んできた。私にとってそれが何より誇らしかった。苦労したなんて思ったことはありません」と静かに微笑んだ。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2009.2.6]