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〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち@〉 女性であり男性であった−舎方知

「これは人類ではない」

舎方知(漫画「車輪」第6巻より)

 1462年4月、世祖実録にはこうある。「公序良俗を乱した舎方知の罪を明らかにし、地方の官奴婢とする。…舎方知は髭がなく、女のように見えた。裁縫に長け、女の服を着用」し、比丘尼と姦通しただけではなく、その後名門の未亡人李氏の奴婢として10年間寝食を共にし、それを隠そうともしなかったので人々の噂になり、朝廷にまでそのことが知れ渡る。王は宰相家に恥をかかせるわけにはいかないと処罰は思い止まったが、臣下はいっせいにこれを糾弾する。「遠流にせよ」「この者は男でも女でもないので殺してしまうべき」などと当時の重臣であった蘆思愼、申叔舟、徐居正、尹弼商などが大騒ぎ、ついには王が「これは人類ではない…遠く地方で永遠に官奴婢として所属させよ」と命を下すに至る。

 それ以前に舎方知は身体検査を受けており、その結果がみなをあっと驚かせた。「彼の装飾品と服装は女でありながら、性器の形は男であり、女でもあるようで、それは普通とは違っていた」「彼は二儀の者(両性具有者)であるが、男としての形象のほうが多」かったからだ(舎方知に関する世祖実録の記録)。

男性に嫁ぎ、嫁も娶った林性仇之

朝鮮画「妓房図」(劉運弘作)

 「吉州の人である林性仇之は両儀ともに備わり、男に嫁ぎ、嫁も娶った特異な存在であります」(林性仇之に関する明宗実録の記録)。1548年である。

 林性仇之は、幼いころから生殖器の構造が人とは違っていたが女の子として育った。年頃になり男性に嫁ぐが、婚姻初夜に追い出されてしまう。行くあてのない放浪生活の末、男装することを決心する。そうするうちに気の合う女性に出会い、婚姻を結ぶ。だが、男性との結婚歴があることはすぐに明るみに出てしまい、官庁に引立てられる。どう処理したものかと悩んだ地方長官は、朝廷にお伺いを立てたのである。

 王である明宗もたいそう悩んだ末、過去の判例の中から舎方知の事例を見つけ、判例に習い、林性仇之を遠い地方に一人安置、人との接触を禁じた。

インターセックス

「少年剪紅」(申潤福作)

 林性仇之や舎方知はインターセックス(Intersex)だったのではないだろうか。インターセックスとは、米国国立健康研究所による定義では、「先天的な生殖系、性器の異常」とされている。より一般的には、外性器、内性器、内分泌系、性染色体などが、「普通」とされる「男性」もしくは「女性」と異なる場合、その人はインターセックスであるといえる(Intersex Initiative Japan)。

 朝鮮朝時代に「両儀」や「二儀」など、「両性具有」を意味する言葉があるということは、そういう孤独な悩みや痛みを持つ人々が複数いたことの証であろう。現在日本でも、目で見てすぐにインターセックスと分かる子どもは、約2000人に一人の割合で、だいたい1年間に600人弱生まれているとされている。現在、インターセックスの存在自体をタブーとして隠ぺいする医療パラダイムは批判されているが、朝鮮朝時代においてはその差別や偏見は凄まじいものだったろう。舎方知についての論争が李朝実録に15回も登場し、こぞって軟禁や遠流、拷問や死刑が繰り返し叫ばれるのは、当時の士大夫たちの間違った嫌悪や自分たちの「常識」を超える「存在」に対する攻撃であろう。自らは妾を複数囲っておきながら公序良俗を口にする矛盾に、彼らは気づいていたのだろうか。

 封建時代、女性への差別には激烈なものがあったが、舎方知や林性仇之のような人たちへの差別は、男性のみならず女性からも加えられたはずである。「女の敵は女」などという言葉があるが、「彼らの敵は男も女も」だったはずだ。現代でもその無知からくる無理解や根拠のない嫌悪、他人事となるといとも簡単に切り捨ててしまううすら寒い状況は存在する。

 500年も前に、女性として生きようとして叶わず、男性としての道を選んだ林性仇之の生きることへの執着と、「淫乱」のレッテルを貼られても、人として当然の権利である恋と性愛を全うしようとした舎方知や比丘尼や未亡人には、生殖を超えたところでの人間存在のたくましさを見る思いがする。(朴c愛・朝鮮古典文学、伝統文化研究者)

[朝鮮新報 2009.1.30]