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〈二人の人物に寄せて−上〉 植民地経営で取得 麻生財閥の蓄財

 本紙(2008年12月1日付)の文化面に掲載された井上學氏寄稿記事と「閑話休題」のコラム記事には、私が愛憎半ばする2人の人物がとりあげられている。

三宅教授に感動

 井上氏の記事は、朝鮮総督府直轄の京城帝大教授だった三宅鹿之助先生に関する記事である。朝鮮唯一の官学の教授でありながら、独立運動家の朝鮮人に信念をもって共感を寄せ、一身を賭して官憲から守った義挙を感動的に紹介している。三宅先生にたいする敬愛の念を抱かせる内容である。

 私には、その想いとは別に、先生への敬慕と、ありし日の先生の姿を偲ぶきっかけにもなった。先生は、偶然にも私が在籍した大学の教授であり、しかも朝鮮人在校生で結成した、朝鮮文化研究会の顧問でもあったからだ。先生は、学習会やコンパなどの行事にも積極的に参加され、未熟な私たちの行動をあたたかく見守ってくれた。もの静かで慈父のような眼差し、好々爺然とした姿が目に浮かぶ。しかし私たちは温厚な先生の過去に、官憲に検挙され、大学から追放されたという壮絶な経歴があったことを誰一人知らなかった。独立運動を目撃し、日帝の弾圧を身をもって経験した貴重な歴史証言者を身近に置きながら、何一つ学ばなかったことが、いまさらのように恥ずかしく悔やんでも悔やみきれない。

 この井上氏の記事とは対照的に「閑話休題」の麻生首相関連記事からは、私が日頃から抱いている嫌悪感が強まり、苦々しい想いにさせられた。麻生家の過去について、朝鮮関連の所業を知ったばかりなのでなおさらである。

 麻生首相は総務大臣時代に、創氏改名は朝鮮人が「名字をくれといったのがそもそも始まり」とか、「ハングル文字は日本人が教えた」など、歴史の歪曲も甚だしい妄言を吐いて、内外からきびしく指弾された。また敗戦直後に、在日朝鮮人を犯罪者、治安騒乱者、食糧事情の厄介者として、日本追放をGHQに懇願した外祖父吉田茂を崇め、理想としていることは周知の事実である。こんなことを含めて好感がもてない。

 麻生首相が、大富豪の麻生グループの御曹司として、豪勢な生活を享楽しているというが、それに対してあれこれと評論する立場にない。しかし、首相の豪遊を担保する財力が実家と無縁でないとすれば、麻生財閥の過去における富の蓄積と拡大に無関心でおれない。

 ある図書館で偶然に「麻生太吉傳」という本を手に取った。1934年(昭和9年)12月に発行された重厚な本である。その内容は、麻生首相の曾祖父麻生太吉が、炭鉱業から身を起こし、「筑豊の炭鉱王」と呼ばれるまで成功したいきさつ、それを踏み台にして水力発電、鉄道、セメント業など、多角経営の麻生財閥を築いたことを太吉の偉人伝として美辞麗句で称賛した、共感も感動も呼ばない「傳記」である。しかし、この記述の中で、当時麻生商店と称していた麻生財閥が、植民地の朝鮮に侵出し、一つの島と金鉱山を取得して経営していた事実に当たり、関心を強く引いた。

 私は、かつて細川元首相の祖父護立が、朝鮮の穀倉地帯の全羅北道で、広大な農場を経営し、大きな富を築いたことを明らかにしたことがある。首相の血縁者で植民地経営の事実に当たったのは麻生太吉で2度目。

島民の反発

 麻生商店が朝鮮総督府から「譲渡」されたとして、1927年(昭和2年)3月に所有した島は、忠清南道瑞山郡の一角にある面積約9千町歩の安眠島である。この島には、見事な赤松が密林をなし、近海には鯛や太刀魚、海老、アワビなどの魚介類が豊富で資源に恵まれた美島とのことだ。資源の豊かさ、住みやすさから「斧一挺持てば食える安眠島」と、昔から呼ばれてきたという。また、従来からの住民である朝鮮人1600戸約1万人の島民は、「無主空山(特定の所有者がいない共有の山)」の昔からの慣習に従って、森林を自由に伐採し、木の芽や山菜、魚介類を採取して生計を立てていたという。

 この自由で平和な島に、朝鮮総督府の後押しを受け、炭鉱で使う坑木の供給と、植林を目的に島を所有した麻生商店が突然乱入してきたのである。筑豊炭鉱で朝鮮人労務者を酷使し、搾取する経験を豊富に積んだ麻生商店が島民とどのように接し、林業経営を行ったかは「傳記」では詳細に述べられていない。しかし、1933年5月に、帝国地方行政学会朝鮮本部で発行された「安眠島」という本には、麻生商店の島取得のいきさつ、林業経営のあらましが記述されている。紙数の関係でくわしく紹介できないが、麻生商店の島の取得、引き継ぎにも大変な騒動があったらしい。

 朝鮮総督府は、安眠島を民間に「払い下げ」するとして競売にかけたが、民間に払い下げの風説が立ち始めるや「安眠島民は勿論、朝鮮の上下にすくなからぬセンセーションを巻き起こし」と、朝鮮人の猛烈な反発があったことをうかがわせる。また、反発を恐れて競売に参加した「内地実業界でも指折りの大実業家として知られている某会社」は、落札を断り結局、国策会社の東洋拓殖と麻生商店のみが残り、麻生商店が競り勝ったとのことだ。島の現地引き継ぎも「総督府から数名の官吏が派遣され」て、「所轄警察署でも、本府よりの訓令もあり、ひそかに厳重な警戒と準備が施された」なかで強行されたようだ。

 こうしてみれば、麻生商店の島の取得は、島民の意志とは無関係に、朝鮮総督府の威嚇と抑圧で実現したことがわかる。(南永昌、歴史研究者)

[朝鮮新報 2009.1.30]