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〈遺骨は叫ぶ-22-〉 愛媛・住友鉱業別子鉱業所

転落や転倒、発破で1年余に51人が死亡 「半島人」と蔑み、空腹で自殺者も

第三通洞跡は柵で固まられ入ることはできない

 アジア太平洋戦争の時は、井華鉱業(住友鉱業)別子鉱業所(愛媛県新居郡角野町立山川・現新居浜市)は、日本でも最大規模の銅生産を誇っていた。発見されたのは元禄と古く、泉屋とその後身である住友の手で開発されたが、ここで産出した銅は江戸時代は長崎出島の貿易の決済に使われた。また、明治以降は、日本の侵略戦争を支えてきた。1943年に軍需会社法の適用を受け銅の増産に励んだ。だが、労働力は慢性的に不足し、勤労報国隊員、学徒動員、女子挺身隊員などを次々と入れたがそれでも足りず、朝鮮人連行者を働かせることになった。

 米軍が日本占領時代に集めて持ち帰り、マイクロフィルムにして日本に帰ってきた資料「移入朝鮮人労務者状況調」(中央協和会)には、1942年6月末までに、井華鉱業別子鉱業所に700人、別子鉱業所筏津作業所(旧別子山村)に236人来たことが記されている。別子鉱業所には、北海道の住友鴻之舞鉱山から多くの朝鮮人が移送されている。

 第一陣の292人は、1941年12月に真冬の鴻之舞鉱山に着き、さっそく鉱山で働いたが、4日目にはけが人が出た。その後は、はじめての外国での生活と、坑内の暗闇で働くのに慣れてないことにもよるが、体や体の一部を機械の間に挟まれる。機械と壁の間に、または機械と鉱車の間に挟まれる。落石や落下物に当たる。転落や軽倒、鉱車の脱線。発破の事故などで、けがや死亡が多発した。別子鉱業所へ移動するまでの1年3カ月の間に51人が死亡している。第二陣の391人は、1942年8月に鴻之舞鉱山に着いたが、8カ月の間に何が起きたかは詳しい資料が見つからない。

東平貯鉱庫跡は今では観光地になっている

 1943年4月1日に日本政府は、金の増産を中止して、軍需物資の増産に政策を転換した。鴻之舞鉱山は、この「金山整備令」で、「休山保坑鉱山」となった。坑夫は、日本人も朝鮮人も全国の住友系の鉱山に配転されることになり、資材と共に送られた。朝鮮人は244人と家族46人の計290人が2班に分かれ、鴻之舞鉱山を後にした。4月15日前後に、朝鮮人は別子鉱業所に到着した。

 朝鮮人は、別子鉱業所の採鉱本部がある、海抜約800メートルの東平に入った。数カ月後に所帯持ちでない人たちが、立川に下りた。眼鏡橋のたもとに協和寮が5棟建っており、一区画が6畳で、そこに5、6人ずつ入った。朝鮮人が協和寮に来て働いた頃に学徒動員に駆り出され、一緒に働いたことのある守谷勇ムの証言がある。

 「戦時中別子銅山で働いていた朝鮮人は、立川の寮に住んでいて、日本人はその人たちのことを『半島人』と呼んでいた。朝鮮人は200人くらいおり、20歳前後の若い人ばかりだった。彼らは、銅山のあらゆる仕事に就いており、棒心(班長のこと)と呼ばれる日本人労働者の下で3交代で働いていた。支柱組などの難しい仕事は棒心と日本人がしていた。朝鮮人はいつも腹をすかしていて、シラミをカンテラで焙って食べていた。夜、寮を抜け出して、野菜を盗んで食べているという噂もあった。着ている服はボロボロで、それを繕うのにダイナマイトの導火線の糸を使う。そんなことをするとダイナマイトの着火時間が狂ってしまい、危険なので朝鮮人には導火線を持たすなと言われていた」(「住友別子銅山で朴順童が死んだ」)

 その当時、働き盛りの日本人は兵隊にとられ、定年前の年寄りとか、兵隊不合格の体の小さい人などが多く、坑内作業の主力は、朝鮮人、米国人、オーストラリア人、中国人だった。朝、坑口のある端出場までは、朝鮮人と日本人が2人1組になって引率した。協和寮から坑口までは近く、引率が必要な距離ではない。逃亡を防ぐためである。鉱業所が作成した「半島労務者逃亡防止対策」に、「協和寮ヨリ引率出稼シ坑口ニ於テ採鉱係ニ引キ継」ぎ、帰りは、逆の経路で引率すると「相当逃亡ヲ防止シ得ト思料ス」とあり、かなり神経を使ったらしい。鴻之舞鉱山では多くの逃亡者が出たが、別子鉱業所の逃亡者数はわかっていない。

 ただ、朝鮮人が言うことを聞かない時は、「よく叩いていました。叩くのは、消防とか事務員とかの日本人職員です。酷いこともしとりました。夏などは、上着を着てないでしょ。パンツ一つでおる。それを紐みたいなもので叩いとりましたが、痕ができておりました」(同上)と、協和寮の炊事婦は語っている。

 食事は、孟宗竹を輪切りにした食器に、麦6米4の割合の飯1杯と、菜っ葉に大根が具の汁が1杯の盛りきりなので、どの人も空腹だった。しかも、鉱山では、増産につぐ増産で、残業が続いた。仕事が辛いと協和寮のトイレで首を吊った人もいたが、そのほかは、けが人も死者の数もわかっていない。

 236人の朝鮮人が働いた筏津作業所の実態もわかっていない。ただ、日本の敗戦から46年目の1991年に旧別子山村の雑木林で、朝鮮人3人の墓が見つかっている。また、「新居浜市史」「別子山村史」「住友別子鉱山史」(上・下)などの分厚い本が出版されているが、朝鮮人連行者のことは何も書かれていない。歴史から朝鮮人強制連行の事実を抹殺しているのである。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2009.1.27]