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「朝鮮史から民族を考える」を読んで 歴史的事実の実証的検討に立脚

民族動態的に呈示するダイナミズム

 つい先だって京都で「在日の現在」といったテーマの国際シンポジウムがあり、招かれて参加した。日本の学者や、朝鮮半島の南から来た人もいて、とてもにぎやかだった。が、40人近い発言者のほとんどはいわゆる「在日」知識人らだ。その彼らの熱弁から聞こえてくるものといえば(みながみなそうではないが)、「脱本国・脱民族」だった。

 自らの国から脱し、自らのヘソの緒である民族からも脱して「在日」することがとてもよくてうれしいことだと、そう彼らは語るのであった。少々おいしいものを分け与えられるとたちまち舞いあがって、もう朝鮮はいらぬ民族はいらぬ、この日本がいい、と。そんな姿を見ながら私は改めて今の在日状況の危機を実感した。(閑話休題)

 朝鮮大学校の康成銀氏が本紙に昨年末までの1年半、じつに30数回にわたって書き続けた「朝鮮史から民族を考える」。

 まず、現代の最大のアポリアといわれる「民族」にあえて挑んだ氏の研究者としての真摯さと勇気を前にして、私はそれを共有しようとする者である。

 民族といえば、私はすぐさま鵺とかヤヌスとか、はたまた奈良は興福寺の阿修羅像まで連想してしまう。それほど民族とは多面的・多義的であって、どうにも? みどころがなく、ひとたび語りだすとたちまち出口ふさがりといった、そんな世界なのだ。

 この難問=民族を解くために康氏は自らの理論的武器である歴史観(歴史分析力)でもって、あえて学問的挑戦を試みた。私は民族問題を思想的営為として考え続けてきた人間であるが、氏は「民族」を歴史のまなざしで見つめ、それも自国史にとどまらず東アジア史・世界史との関連にまで広げながら論を進めている。

 連載はまず民族の概念定義から説き起こし、次に歴史世界へと読者をいざなう。「乙巳五条約」の法的効力、3.1運動の「民族代表」、植民地期朝鮮人史学者、日帝の朝鮮農村収奪、文化財、歴史教科書と、内容ゆたかだ。しかも年代順に問題群に沿って書かれているので朝鮮近現代史の理解にも大いに助けになる。

 同連載の筆者はどうやら理論(民族論)と現実(朝鮮史)の結合をめざしているらしく、常に歴史的事実への実証的検討に立脚しつつ民族論を展開している。歴史の中で民族を考えるという視点に支えられているので、民族を非存在から存在へと実体化させるというか、民族を固定的なものでなくたえず変化発展する動態的なものとして呈示する、そんなダイナミズムがこれらの文章には内包されている。これは同連載の重要な特徴である。

 民族にせよ民族性にせよ、はたまた民族主義にせよ、決定済み≠フものは何ひとつなく、それらはみな日々問われ続けるイシューばかりなのだ。未だ答えがなく、それで人々はそれを探し求める問答をくりかえす。それでいいのである。歴史や民族を固定的な枠の中に閉じこめ決定論的に考察するのでなく、未来創造的なものとして捉えそれへの思索を深めること、それはとても生産的な作業だと私には思われる。

 オルテガ・イ・ガセットは「大衆の反逆」で、「ネーションの存在は日々の人民投票である」との有名なルナンの定義を引用しながら、民族国家が人民の日々の票決によって成立しその未来もそのようにして決定されるのだと熱く語っている。「人間にとって未来と関連しないものはすべて無意味」であり「人間の生は常に未来の何かに従事している」と、いみじくも指摘している。

 康氏の連載の今ひとつの特徴は、それが非常にポレミックな(論争的な、論争を誘う)文章だということである。先行研究への目配りのきいた検討作業に基づき争点的問題について毎回、批判的かつ問題提起的に叙述がなされている。世の研究者らは当然これに応答すべきだろう。また専売特許みたいな苔むした専門≠フタコ壷から抜け出て、歴史学、哲学、法学、国際政治学といった広い学問分野を包括する学際的アプローチも必要だと思う。

 社会科学論文も、人が書く文章である以上、血がかよっていなければならない。いかなる文章も、すべからく、故あって書かれるべくして書かれなければならない。この連載文には、それがある。最終29、30回の「在日同胞と民族」(08年12月8日付および12月10日付)をぜひ再読されたい。氏はこの部分をたぶん万感の思いで書いたのだと思う。在日の組織状況と、祖国統一への私たちの実存的役割について述べているのであるが、執筆者の苛立ちと必死さがよく伝わってくる最終回であった。同胞よ目を覚ませ、と彼はいっているのだ。

 冒頭で今日の「在日風景」について述べたが、日本官憲がしつこく行なっている総聯弾圧の口実がイデオロギーでなくまさに「民族」にあるという事実に気づかず「在日論」だけをうそぶいているいい気なインテリを見ていると、つくづく、お前さんたち、たまにはこんな文章でも読んで世を生きるよすがにしなさいと、そういいたい気分だ。(悪口御免)=高演義、国際政治学者

[朝鮮新報 2009.1.19]