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悩み、葛藤、理想とのギャップ… 華やかな舞台だけではない

 4日間にわたり、講習を行った全国の朝鮮歌舞団。歌い舞う華やかな舞台の裏には、さまざまな苦労や悩み、葛藤があった。

ギャップにとまどい

基礎練習に励む舞踊家たち

 「歌舞団の団員たちが歌い、踊る姿に憧れて」「大好きな歌や踊りを続けられる」「私の歌や踊りで同胞たちの力になれるなら」と、多くの団員が舞台に立ち、歌い踊ることを夢見て入団を決めた。

 しかし、いざ入団してみると、色鮮やかな衣装を身にまとい、同胞たちの温かい拍手に迎えられ、舞台に立つことだけが歌舞団の仕事ではなかった。

 公演や練習の合間には、歌やチャンゴなどのサークル指導、デイサービスなどの老人介護施設でのボランティア活動、日校学生会の公演指導…体がいくつあっても足りないくらい、実に多様な場で、多忙な日々を送る。また、重い機材の運搬、夜を徹しての運転、自主公演の観客の動員や資金集めなどにも奔走する。

 「正直、初めは自分の思いとのギャップにとまどった。嫌だということではなく、やりこなせるかという不安感でいっぱいだった」と、韓将植さん(23、兵庫)。しかし、「今はそれが楽しいし、時には励まし、時には厳しい声をくれる同胞の中でやりがいを感じている。それくらい担う役割は大きいし、期待と信頼があるからこそ任されていると思う」と話した。

 李明美さん(23、京都)は、幼い頃から歌舞団の舞踊家に憧れて入った。「舞台で踊る姿しか見ていなかったから、キレイなイメージだけだった。実際は、想像以上にしんどいことが多く、気持ちが萎えたこともあった。でもそれ以上に、同胞の笑顔や周りの支えなど、やりがいを感じる瞬間が大きいからがんばれる」とはにかんだ。

現状は厳しくとも

上級班女声民謡「コッタリョン」(発表会)

 近年、歌舞団の数や団員数は、減っているのが現状だ。数年前までは10カ所にあった団も今では7カ所に。団員は多くて10人、最も少ないところは3人で活動を行っている。

 鄭晃代団長(26、東海)は全国で最年少の団長だ。「入団当初は、12人いた団員も1人、2人と減っていき、今は3人。この先どうなるのかと不安だった。団長になるのも1年以上悩み続けた。まだまだ未熟だし、自身の技術を高めることに専念したかった。だけど、このままでは東海歌舞団自体の存続が困難だと思い、思い切って決心した」と当時の心境を吐露する。

講師に倣いながら練習に励んだ

 金愛美さん(19)は、現在、朝青埼玉県本部で宣伝広報部指導員を務めながら、週に1回、東京歌舞団に赴き、練習に参加している。茨城県出身の金さんは親元を離れ、一昨年4月から昨年4月まで北関東歌舞団で活動した。しかし、5月に休団が決まり、6月からは朝青に所属している。2年目にして歌舞団での活動の場を失ったのだ。休団の話を聞いた時、「だったら入らなかったのに…」と悔しさで胸がはち切れそうになったという。

 「何でこうなるの? このまますべて投げ出そうか…」と自暴自棄になったこともあった。けれども、冷静になって考えてみると、「嘆いてだけいては何も進まない。朝青の活動も、歌舞団の活動に活かされることがあるし、東京歌舞団で練習もさせてもらっている。周りの人たちの支えがあって、こうして同胞社会の中で活動できている。与えられた場所でコツコツとがんばれば、自ずと道が開けると信じている。いずれは北関東歌舞団を復活できれば」と目を輝かせる。

家事や子育てに追われ

休む間も惜しんで練習に明け暮れる

 家事や子育てをこなしながら、また親元を離れ活動に精を出す団員もいる。

 入団8年目の鄭栄姫さん(26、広島)は愛媛県出身。高級部から広島朝鮮初中高級学校の寄宿舎に入り、卒業後から1人暮らしを続けている。愛娘を心配し、反対する両親を押し切り入団を決意。「親元を離れて、また1人になって、親のありがたみを知った。3年目に催したディナーショーを機に、アボジも応援してくれるようになった。だから、今は胸を張って活動できる。歌舞団の名を轟かせ、自分の足跡を残せるようがんばりたい」と意気込む。

 5歳の娘を連れ、講習に参加した康順愛副団長(36、大阪)。初2の息子は友人の家に預けてきたという。歌舞団は日曜、祝日に公演が頻繁に入る。夜遅くなることや出張もたびたび。そのつど、子どもたちを預け、公演に出かける。子どもが高熱を出したり、体調が優れない時でも、仕事は待ったなし。

パソコンや楽器を持ち寄り、伴奏制作も行った

 「つらくて、泣きながら会場に向かったこともある。それでも、公演をすれば同胞たちの温かい拍手に迎えられ、自然と力が沸いてくる。いろいろなことを乗越えられたのも、夫をはじめ、家族や団員、多くの人の支えがあったからこそ。子どもたちも、オンマが歌う姿を喜んでくれている」。

 結婚を機に、退団も考えたが、夫や団員たちの後押しとともに、「歌舞団に入り、祖国、組織、同胞…本当にたくさんの愛をもらってきた。その恩に応えるため、ずっと活動を続けていこうと心に決めた。また、そんな自分の後に後輩たちも続いてくれたらと思って」と、当時を述懐する。

全てをやりくり

 練習場の確保や財政面でも苦労は絶えない。

 やむを得ない事情で練習場を移さなければならなかった歌舞団もある。大阪では、大阪朝鮮文化会館を借りて練習をしている。練習時間は生徒たちの部活時間前までと限られている。夏休みになると、生徒たちが日中も練習を行うため、分野別に総聯各支部事務所を借り、練習に励んできた。

 また、同胞から招かれれば、遠方へでも車を飛ばして駆けつける。舞台のない公園や畳の上などでも、きれいな衣装を準備し、機材を持ち出し公演を行う。燃油、衣装、機材の維持費など財政の負担も大きい。それでも、同胞の温かい支援や、公演を重ねた出演料などでどうにかやりくりしながら、活動の灯を点し続けてきた。(姜裕香記者)

[朝鮮新報 2009.1.7]