〈月間平壌レポート -09年11月-〉 様変わりした工業都市・清津 |
苦難乗り越え新たな時代に 【平壌発=姜イルク記者】18日夕方から平壌市に初雪が降った。翌朝にはきれいな雪景色が広がった。平壌から遠く離れた朝鮮北東部の都市、咸鏡北道清津市では早々と9日に初雪が観測された。今月上旬から中旬にかけて、本紙平壌支局特派員とスタッフ一行は咸鏡南北道を訪れた。
「金鉄」の現代化
今回、2002年2月以来7年ぶりに清津市を訪れた。 前回、3泊した天馬山旅館に今回も泊まった。当時は電力事情が悪く、部屋に置いてあったロウソクが唯一の明かりだった。部屋も寒く、凍える思いで寝たのを覚えている。 しかし今回は、改装された温かい部屋で快適な時間を過ごした。シャワーも浴びることができた。 清津市の風景自体にさほど変化は見られなかったが、取材の過程で、「苦難の行軍」と呼ばれた経済的苦境を体験する以前の活気を取り戻していることを確認できた。 清津市といえば国内最大の金策製鉄連合企業所(以下金鉄)が有名だ。母体工場だけでも2万人が働いている。 金鉄は銑鉄生産と設備のリニューアル作業で活気に溢れていた。工場関係者によると、今年11月の月間生産高は90年代後半以降、最高を記録する見通しだという。 原料、燃料などすべてが不足していた90年代後半は、施設を維持するのがやっとだった。老朽化した施設に対する補修もままならなかった。 00年以降、原料や燃料が定期的に入ってくるようになり、復興のきざしが見えはじめた。しかし02年の取材時には、90年代の苦境の影響がまだ残っており、現存施設の一部で細々と銑鉄の生産を行っていた。 今回、現地取材を通じて確認できたのは、企業所内のあらゆる施設が現代化されていたことだ。 さまざまな大きさの鉄の塊をつくる生産設備の重さは数千トンにもおよぶ。その巨大な工程を一新し、コンピューターで操作できるようにした。溶鉱炉に吹き込む酸素を生産する酸素分離機も一新された。何よりも大きな成果は、国内に無尽蔵に埋まっている石炭で銑鉄を生産できるようになったことだ。 90年代後半、金鉄で生産が滞った最大の要因がコークス問題だった。コークスの輸入は必須だった。しかし、バーター取引先の東欧社会主義諸国が相次いで崩壊したことなどによってコークスの調達が困難となった。 金鉄では近年、国産の燃料による生産方法を研究してきた。その結果、今年9月、5回目となる試験運転に成功した。この成果をもとに2012年までに大量生産に移行するという。 従業員からの「取材」 平壌から清津市までは自動車で移動した。いったん東に向かって元山(江原道)に行き、そこから東海岸を沿って北上するルートを選んだ。咸興市、端川市(以上咸鏡南道)、金策市(咸鏡北道)などを経由した。 元山まで行く途中の新坪休憩所では、20代の女性従業員から「取材」を受けた。誰と何の目的でここに寄ったのか、どれくらいの周期でここを通るのか、そして名前と年齢、職種まで聞かれた。これまでこの休憩所には数えきれないほど立ち寄ったが、このような「取材」を受けたのは初めてだった。彼女のノートには、われわれの到着時刻と出発時刻を書き込む欄もあった。 休憩所に寄った他の団体も、他の従業員の「取材」を受けていた。聞くところによると、新たな休憩施設の建設を検討しているという。 冷麺愛好家のルート 今回通った平壌から清津までのルートは、冷麺愛好家にとってはたまらないルートだ。 咸興市の中心部には「ノンマクッス(麺)の玉流館」と呼ばれる新興館がある。 ジャガイモを原料とするノンマクッスの麺は、真っ白でとても細い。ものすごい粘りがあって食べごたえがある。 同店の人気は相変わらずで一日に数千人の客が来るという。現在は店舗の拡張工事が行われている。 清津の名物は「フェクッス」だ。「フェ」とは朝鮮語で刺身の意。「フェクッス」の具には唐辛子などで味付けされたスケソウダラの刺身がたっぷり使われる。麺の主成分はそば粉で平壌冷麺と変わりないが、スープが特徴的だ。 清津港の目の前にある「清津外国船員クラブ食堂」のメニューには、通常の冷麺と「フェクッス」がある。スープの色は黄色い半透明で同じだが、味がまるで違う。少し甘みがある。製法は企業秘密だそうだが、そのスープが魚の生臭さを消すという。 麺とフェを一緒に口に入れると、先にやわらかいフェがとろけて麺に絡む。あまりのおいしさに、食事中はいっさい会話がなかった。 夕方7時半頃、60ほどの食堂の座席は外国人や国内の家族連れなどで埋まった。ちなみに上記2つの食堂では朝鮮ウォンしか使えない。 食べていくこと自体がやっとだった数年前までは、料理の味にこだわることが難しかった。 7年前に清津のある家庭を取材したとき、食糧の配給が非定期的になっているということを聞いた。しかし当時も清津の人びとは記者たちに食事をふるまってくれた。お世辞にもおいしいとは言えなかったが、その気持ちがとてもありがたかった。 今回は各種の魚料理など東海岸で食べたものすべてが思い出に残るほど美味だった。平壌以外の地方でも「質より量」がすでに過去の話であることを実感した。 [朝鮮新報 2009.11.25] |