〈月間平壌レポート -09年8月-〉 クリントン元米大統領訪朝と特使弔問団派遣 |
鮮やかな局面転換 【平壌発=金志永記者】3日、朝鮮外務省から取材記者名簿の提出を求められた時、予感がした。以前から海外メディアの間では、それに関する憶測報道が飛び交っていた。 一方、平壌の人びとにとっては「予期せぬ出来事」であったに違いない。翌4日、朝鮮中央テレビの報道で「クリントン元米大統領到着」の第一報を知った人びとは一様に驚きの表情を見せた。
異例の光景
4日午前、本紙平壌支局の現地スタッフとともに平壌空港に向かった。「ARRIVAL(到着)」の掲示板には「N2121/11:20」とある。もちろん、民間航空会社の定期便ではない。 現場の記者たちは、すでに訪問者の名前を知っていた。 用意周到に、1994年のカーター元大統領訪朝時の資料に目を通してきたという外交取材のベテランもいた。無秩序な取材を戒める外務省関係者と最高の撮影ポジションを求めるカメラマンたちが立ち位置をめぐって口論する一幕もあったが、結局、カメラマンたちによる「陣取り合戦」もなく、歓迎行事は簡潔かつ整然と行われた。今回、元大統領の訪朝には米側の記者は一人も同行しなかった。 同日正午、平壌空港には異例の光景が広がった。 予定より40分遅れて銀白色の飛行機が滑走路に降り立った。機体には所有者や搭乗者を連想させるマークやデザインは何もなく、尾翼に「N2121」のナンバーだけが刻まれている。 タラップを降りた元大統領は、最高人民会議常任委員会副委員長や朝鮮外務省高官たちと言葉を交わし、女生徒から歓迎の花束を受け取った。 米側は、クリントン元大統領の訪朝が「個人の資格」によるもので、「抑留されている米国人記者2人の釈放」が唯一の目的であったと説明した。飛行機は元大統領の友人であるハリウッドの富豪が提供したという。 朝鮮側は訪問者の資格について言及していないが、大統領在任中に訪朝計画を推進したことのある人物として、丁重な対応を準備したのは事実だ。翌4日の午後には、金正日総書記が元大統領と会談した。 興味深い現象は、訪朝を機に平壌の人びとが元大統領に対してプラスのイメージを抱いたことだ。任期中、彼は朝米ジュネーブ枠組み合意(94年)に基づき朝鮮側に軽水炉を提供すると自身の名義で担保書簡を送ったにもかかわらず、約束を反故にした。以前ならば、彼が肯定的な文脈で語られることはなかった。 リーダーシップ発揮 朝鮮側の報道によると、総書記と元大統領の会談では「朝米間の懸案問題が議論」され、「対話の方法で問題を解決」することで一致したという。 朝鮮の人工衛星打ち上げを問題視した国連安全保障理事会の議長声明採択で朝米対決の構図は激化した。「個人の資格」で訪朝した元大統領と総書記が会見したことで、局面の転換が誰の目にも明らかになった。 国内では数カ月前まで対米関係のスローガンは「制裁には報復を」であった。対決から対話への路線変更に伴い、朝鮮国内では総書記の強力なリーダーシップが再確認された。 昨年末から人びとは連日のように総書記の活動に関する報道に接している。 全国を精力的に駆け巡り経済視察を行う指導者のイメージは、金日成主席生誕100周年を迎える2012年に「強盛大国の大門を開く」という宣言が虚言ではないことを実感させるものだ。09年は今後の成果を左右する重要な年と位置づけられている。人びとは、クリントン元大統領との会談も総書記が行っている「強行軍」の一環として受け止めた。 テレビで会談のニュースに接した市民の感想には共通点がある。 「3年後には、想像もしなかった状況が生まれているかもしれない」 人びとは楽観に満ちた展望を語り始めている。 8月16日には総書記が南朝鮮の現代グループ会長と会見した。北南関係改善の突破口も開かれた。その直後、ワシントンではオバマ大統領がクリントン元大統領から訪朝報告を受けた。 衛星打ち上げ後の制裁騒動とは対照的な場面が相次いだ。 21日には、金大中元大統領逝去に際して特使弔問団がソウルに派遣された。昨年2月の李明博政権発足後、北の高官が南を訪れるのは初めてのことだ。 特使弔問団一行は23日、青瓦台で李明博大統領と面会した。 「変化が起きる年」 報道に接した市民は、クリントン元米大統領の訪朝を機に表面化した朝米の対話路線と北南関係改善の動きがどのようにリンクしているのか知るよしもない。ニュースは事実関係を淡々と伝えるだけだ。 8月、総書記のリーダーシップによって朝鮮半島情勢は局面が転換した。人びとの希望的観測も徐々に確信へと変わりつつある。 09年は「変化が起きる年(변이 나는 해)」(労働新聞7月13日付政論)だという。国内メディアもこのフレーズを繰り返している。真夏の予期せぬ出来事に驚いた人びとも、今ではこのフレーズに大いに感化されている。 「本当の変化はこれからだ」 平壌市民の間では、今後の大きな動きを予期する人たちが多い。 [朝鮮新報 2009.8.26] |