〈月間平壌レポート -09年7月-〉 「変化」、日々目の当たりに
各地で増産の熱意最高潮
【平壌発=呉陽希記者】今月に入り平壌の最高気温は30度前後になるが、日本に比べて湿気が少ないためさほど暑苦しさを感じない。しかし、現地の人からすれば「のぼせるほど暑い」そうだ。国内の生産性向上を目指す「150日戦闘」が最高潮に盛りあがっている。めまぐるしい朝鮮の「変化」を日々目の当たりにしている。
「遺訓を貫徹」
三日浦特産物工場で働く女性従業員。同工場は人工衛星打ち上げ2日後の4月7日、金正日総書記が現地指導した 金日成主席の逝去15周年に際して8日、中央追悼大会が行われた。この日、金正日総書記は赤い旗を背景に主席の肖像画が掲げられた舞台のひな壇に登壇した。
金永南委員長は、「金日成主席の革命思想と偉業は金正日総書記によって輝かしく継承発展し、全面的に完成されている」と指摘した。主席生誕100周年となる2012年に「強盛大国の大門を開く」という構想も、「主席の遺訓」を「貫徹」するためのものだ。
この日の大会に参加した記者は、国産の原材料のみを使用した食料加工品を取りあつかう三日浦特産物商店を取材した際に、関係者から伝え聞いた総書記の言葉が脳裏から離れなかった。
「このすばらしい様子を主席が見たらどんなに喜ぶことだろう」
折り返し点
4月20日に始まった「150日戦闘」は折り返し点を迎えた。取材先、とくに農場や工場などの生産現場で、終了日の9月16日まで「残り何日」と書かれた日めくりを見るたび、09年の朝鮮の息吹を実感する。
15日から数日間、今年2月の総書記の公式活動の映像を編集した記録映画がテレビで放送された。総書記が今月、視察したと伝えられた経済部門は18カ所。軍部隊視察なども含めるとほぼ毎日活動が報道された。行動範囲も咸鏡南・北道、平安北道、江原道、慈江道と広範囲にわたった。
総書記は「列車生活」を送りながら指導している。この話は取材先で確認していた。実際、記録映画には日の出、日の入りや雪で覆われた車窓からの風景、現場で関係者に直接指示を与える総書記の姿、総書記の発した言葉に周囲が笑い、場の雰囲気が和む場面などが映し出された。
昨年11月に続いて今年2月8日、再び総書記が現地指導した楽元機械連合企業所のパク・チョングン支配人は、「総書記は『150戦闘』の開始に先立ち、国内経済活性化に重要な意義を持つ主要工場と企業所を指導した。2月の指導の際、総書記の姿からは11月よりもさらに力強い印象を受けた。総書記の熱意に触れて奮起しない者はいない」と話す。
楽元機械連合企業所は10月に完成予定だった酸素分離機を6月に完成させた。この酸素分離機は11の企業所が提供する部品を使用するため、同企業所だけが意気込んでも生産はできない。あらゆる関連部門が奮起し共同歩調をとった結果だ。
多忙きわめる
平壌滞在時は早朝の散歩を日課にしている。行きは大同江沿いを歩き、帰りは道路沿いの歩道を歩く。大同江沿いの遊歩道では釣りや体操をしながら朝の時間をゆったりとすごす中高年が多い。一方、道路沿いの歩道はといえば、職場や学校へ急ぐ学生や会社員があわただしく行き交う。長蛇の列ができたバス停、体より大きなリュックを背負って登校する小学生、アパートの窓から身を乗り出し子どもを見送る母親、父親の自転車の後ろに乗った女の子、本を片手に歩く青年 −。平壌市民の生活の一部を垣間見ることができる瞬間だ。
そんな光景に目を細めていたところ、さる3月に取材した人物に偶然出くわした。「まだ平壌にいたのか」と驚いている様子。近況を尋ねたところ、「忙しすぎて早朝しか自分の時間がもてない」という。
このところ、取材のスケジュールが狂うことが多くなった。たとえば午後に取材の約束をしていた場合、午前中までスケジュールの確認がとれていたとしても、その後に急な会議や出張などが入り、日程が変更になったりする。取材中も電話の呼び出し音が鳴り続け、ひっきりなしに人が訪ねてくるといったことも珍しくない。
取材のコーディネーターを務め、本紙平壌支局の活動を陰で支える現地スタッフは申し訳なさそうな表情を浮かべるが、このような現象は今の朝鮮の「変化」を物語っている。
今月中旬に10日間の日程で地方取材に出た記者が予定より2日早く平壌に戻ってきた。何か問題でもあったのかと心配したが、当の記者は「これが今の祖国の速度。われわれも計画を前倒しして130%遂行してきた」と自慢げに語っていた。
[朝鮮新報 2009.7.24]