top_rogo.gif (16396 bytes)

〈月間平壌レポート -09年2月-〉 「君は千里馬に乗ったか」 現地指導報道に胸躍らせ

 【平壌発=韓昌健記者】平壌滞在も3カ月を終えようとしている。日本という国を恋しいとは思わないが、幼い姪っ子の顔は見たい。迎春公演に参加した生徒と先生たち89人が4日に帰った。大所帯が一度に帰ると寂しい。2階の食堂はセミの抜け殻のようになっている。生徒たちが大きくなる頃には幸せな社会が訪れていることを願う。そのためにも、今を生きる大人が仕事をたくさんしなければと、決意を新たにした。

総書記の人柄

全国各地の工場や農場で月別計画を超過達成した報道が伝えられている(写真は、平壌基礎食品工場)

 この間、金正日総書記が現地指導で訪れた工場、企業所などの経済単位を回った。

 インタビューした工場支配人たちは、みんな総書記と直に会った人たちだ。報道写真にも並んで写っている。

 総書記について語る時は、行く先々で一様に表情を明るくする。まるで目前にその日の総書記がいるかのようだ。どんな会話を交わしたかまで身振り手振りで鮮明に再現する姿は、久しぶりに父親と会った子どもの姿そのもの。

 一国の最高指導者を前にして最初は緊張していた人たちも、いつのまにか隔てなく和やかに話している自分に気づくという。総書記は多弁な人で、冗談や機知に富んだ会話が上手らしい。よく周囲を気遣うとも。博識家で探究心が強く、腹に力を込めた太い声で話すという。

 祖国の人たちは、総書記の現地指導の報道をいつも注視している。今度はどこに行かれるのか、もしかしたら自分のところに…と想像するだけで、夜もおちおち眠れないという。

歌謡「わが祖国」

 1月26日(旧正月)に迎春公演が行われた。本公演は、演目の創作が恒例となっている。しかし、11番目に登場した男声独唱だけは違った。

 曲名は「わが祖国」。歌謡だ。すぐにはメロディーが浮かばないかもしれない。記者は学生の頃に音楽の授業で習った記憶がある。70年代に作られたものだ。

 この曲を新年に際して歌った。1番の歌詞に「労働で新たな喜びをもたらした国」「溶鉱炉からは赤い鋼鉄が流れ」、2番の歌詞に「新たな奇跡があふれ出す千里馬の国」という箇所がある。

 総書記の精力的な活動と共同社説の内容を鑑みるに、わざわざこの曲を演目に組み込んだのは、全国の人民、とくに新しい世代にあの頃を喚起させるためではなかったか。事実、平壌ホテルの若い従業員たちはこの歌を知らない。

 君は千里馬に乗ったか−。

 この言葉は戦後経済高揚期のスローガンとなっていた。昨年末に総書記が千里馬製鋼連合企業所を訪れて以来、市民の間では合言葉になっている。ホテルの食堂で「食事を『千里馬速度』で運んできて」などと冗談を飛ばそうものなら、「ふざけている場合か」と大真面目に注意される。あげくには「あなたは千里馬に乗ったのか」と逆に詰問され、答えに窮する羽目に。それほどこの言葉の意味するところは大きい。

 2月に入ってからも経済部門では、活発な生産活動が続く。労働新聞には生産活動で実績をあげている全国各地の工場と協同農場が紹介されている。いずれも1月の計画を100%以上の水準で達成していた。平壌大劇場から流れてくる行進曲の音量も増した。旗を振る女性も増員された。

 資本主義諸国が軒並み不況にあえぐなか、朝鮮は「強盛大国の大門を開く」と宣言した2012年に向けて前途洋々の航海を続けている。総書記のもと、全人民が一つの目標に向かって勇往まい進している。蝸牛角上の政争に熱を上げている隣国とは大違いだ。

2月に雨が降る

 今年の2月9日は旧暦の1月15日にあたる。祖国では名節として祝い、月見を楽しむ。窓の外では、雨がしとしと降っていた。せっかくの休日なのに…と残念がりつつ、はっとした。

 雪ではなく雨が降っている。

 最近の平壌は気象がおかしい。かつての冬らしくない。

 それでも大同江は1月に薄く氷が張った。「近年は表面が凍るだけでも大変なことだ」と現地スタッフは言う。大同江に張った氷はすでに溶けている。

 2月初旬、平壌市の最高気温は6〜9℃の日が多かった。観測史上最高を記録する日が続いた。それでも日本にいたときは寒いと感じた気温だ。それを暖かく感じるから不思議だ。

 大陸の寒さにもだいぶ慣れた。最近は頭にあたる寒風の具合で気温がマイナスかそうでないかを判別できる。平壌ホテルの従業員たちはすでにTシャツ一枚でバレーボールに興じ始めている。

 2年半前にほんのちょっとだけ建設工事を手伝った元山青年発電所が完工した。その姿を見たときは感激した。同じく松涛園食堂で久しぶりに舌鼓を打ったときも感動した。停泊したままの「万景峰92」号を車窓からちらっと見かけた。空路に苦労する1世たちを想うと胸が痛む。

 滞在期間、いつも祖国について考えた。

 この国がなかったら、在日社会はどうなっていたか。そんな問いかけすら、日本にいるときはしたかどうか。戦後生まれの在日は亡国の悲哀を知らない。祖国が祖国として在るという事実を疑わない。祖国の青空を仰ぎながら在日社会の行く末を想う。まだまだやらねばならないことが多い。

 一人で平壌空港に降りた記者を、祖国の人びとは心から温かく迎えてくれた。多くの人に会い、多くの場所を訪れた。見た事すべて、聞いた事すべてが糧になろう。

 いつまでも思いやりにあふれた人間らしい生活の息吹く祖国であってほしい。枝垂れ柳のそよぐ美しい平壌であってほしい。

 心に描く姿そのままに。

[朝鮮新報 2009.2.25]