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〈教室で〉 鶴見朝鮮幼稚園 守枝先生

幼稚園は民族教育の入り口 社会、健康、朝鮮語、造形など

 午前9時30分を少し回った頃、通園バスが到着すると、園舎は子どもたちの元気な声で一気に活気を帯びて明るくなる。「アンニョンハセヨ!」。タンポポ組み(年少、3歳児)担任の尹守枝先生が子どもたちを笑顔で迎え入れた。

教育内容

「こぼさないように食べようね」と尹守枝先生

 鶴見朝鮮幼稚園(神奈川県横浜市)の教育方針は、「幼児期から民族情緒豊かな子どもに育て、学校前教育の基礎を築くこと」。

 幼稚園では教育目標を、@自分の意思を朝鮮語で表現できる、A集団生活の中で友だちを大切にし協調性を育てる、B健康的で体力のある子どもに育てる、C自分のことは自分でできるようにする、Dいろんな体験を通して探究心を育てるの5点に定め、日々の保育を行っている。具体的な保育内容は、「生活/社会・健康」「朝鮮語」「環境/自然・数」「表現/造形・音楽・遊戯」の領域に分けられる。他にも独自に月3回の専門家による水泳指導と、週2回の外国人講師による英会話を実施している。

 この日は公開保育に向けて、体育館で運動発表の練習が行われた。

 「ウンドンノリ ハルレヨ(運動するよ)!」

 尹先生のかけ声に合わせて、園児らはスキップ、ギャロップ、側転などを、太鼓のリズムに合わせて次々こなす。

 柔軟体操の場面では、座った姿勢で足を前に伸ばして前屈、足を開いて右へ、左へと体を曲げて、最後は腹ばいになって体を後にそらせ、頭と足の裏をピタッとくっつけた。

 音楽に合わせて体を動かし、名前を呼ばれたら大きな声で返事をする。年長さんらが張り切る姿に、小さい子達も負けじと声を張り上げ、一生懸命体を動かしていた。

幼い頃

手をつないでスキップ、ギャロップ

 教員生活33年。尹先生が教育者をめざすきっかけとなったのは、東京朝鮮第3初級学校に通う2、3年生の頃、「オンマのようで、オンニのようでもあった」担任の姜秋禄先生の影響が大きいと言う。2年生で日本の学校から朝鮮学校へ編入してきた尹先生を、姜先生は温かく迎え、遅れがちな勉強を放課後も教え、時には「自分の家に招いて夕食を食べさせ、一つ布団で包むようにして寝かせてくれた」。

 当時は体が弱く、体格も小さかった尹先生。通学には電車で1時間以上もかかるうえ、乗り物酔いがひどく、いつも一番上の兄に負ぶわれての登校だった。「私のランドセルを前に抱え、自分と兄の2つのランドセルを背負って歩く2番目の兄の姿は今でもよく覚えている」。それを見かねたアボジが何度も「近所の(日本)学校に戻りなさい」と言ったが、「みんなと違う」日本学校へ行く気にはなれなかった。「兄の卒業後は、『通学班』の6年生のオッパ(お兄さん)に負ぶわれて通った。学校へ歩いていった記憶はない」。(金日宇編、「私たちの東京朝鮮第三初級学校物語・証言編」より)

 朝鮮学校でのさまざまな体験と朝鮮舞踊との出会い、帰国事業の開始、日本で行われた大音楽舞踊叙事詩とマスゲーム等が、少女の心に強い民族心を植えつけていった。

民族教育への思い

運動の後は食事の時間

 東京朝鮮中高級学校卒業後、同校舞踊指導員を経て、朝青埼玉県本部組織部長として働いた尹先生は、地元の同胞労働青年たちを対象に朝鮮語を教える、「青年学校」講師として活動する。総連組織の薦めで朝鮮大学校の門をくぐり、憧れの民族学校教員になったのはその後のことだった。

 「新任教員だった当時、学父母たちは本当によく助けてくれた。大切な子どもたちのために、教師としての資質を高めなくては、との思いは今も変わらない」

 結婚を機に東京から神奈川へ活動拠点を移し、横浜初級教員、鶴見初級主任兼担任、そして幼稚班教員の不足から10年間、幼稚園教員として孤軍奮闘した。当時は毎朝6時半に乳飲み子を駅で姑に預け、夜11時を回って迎えに行った。「長女の笑っている姿、歩いている姿はほとんど記憶にない」という。

 4年前、横浜朝鮮初級学校付属幼稚園と鶴見朝鮮幼稚園が統合され、園児数は倍増、苦しかった財政面も一息ついたところ。現在は園長と新任教員2人を含む4人で保育に当たっている。

 「幼稚園教育は民族教育の入り口」

 草創期に手探りで作られたであろう朝鮮幼稚園教育「領域」のさらなる充実を図るため、尹先生は日本の保育講座も参考に、自身の見識を深めている。

 そればかりか尹先生は、同園での保育に加え、鶴見地域の日本の小学校に通う同胞児童を対象とした月2回の土曜児童教室の運営と、朝鮮幼稚園のない湘南地域での月1回の幼児教室の出前授業にも奔走している。

 長年総連の教育活動家として働いてきた尹先生は、「これから先、持ち場があってもなくても、現場を離れた後でも、民族教育を手伝っていける人でありたい」と思いを語った。(文−金潤順記者、写真−盧琴順記者)

※1953年生まれ。東京第三初級、東京中高、朝鮮大学校師範教育学部(当時)卒業。東京中高舞踊指導員、朝青埼玉県本部組織部長を経て、71年から東京第三初級、横浜初級、鶴見初級で教職に着く。95年から鶴見幼稚園教員。現在は、同主任兼タンポポ組み担任。

[朝鮮新報 2009.6.12]