関東大震災・朝鮮人虐殺事件 東京・荒川河川敷で「追悼碑」の除幕式 |
日本の市民グループら 「加害の歴史、風化させぬ」
今から86年前の1923年、関東大震災のあと、軍や官憲によって「朝鮮人が暴動を起こす」などの流言飛語が流され、軍・官憲とそのデマを信じた民衆らによって、関東一円で数千人の朝鮮人が虐殺された。その受難の現場の一つが荒川にかかっていた旧四ツ木橋周辺である。 8月29日、東京都墨田区八広の荒川河川敷そばの私有地に、朝鮮人虐殺事件の追悼碑が市民の手で完成し、除幕式が行われた。追悼碑を建立したのは、「加害の歴史を風化させてはいけない」と、長年、真相究明に取り組んできた「グループほうせんか」(西崎雅夫代表)。 根府川石で作られた石碑の表面には、「悼」の文字が彫られ、裏面には次のような碑文が刻まれている。 「一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言蜚語を信じた民衆によって、多くの韓国・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知られぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する」(追悼碑の左脇にステンレス板による説明文が設置された)
除幕式では、西崎代表があいさつし、長年、歴史の闇に葬られてきたこの虐殺事件の真相に光を当てた、当時、地元の小学校の教師で昨年2月死去した故絹田幸恵さんについて言及した。調査活動は82年、同氏の呼びかけではじまった。地域のお年寄りたちから「たくさんの朝鮮人が殺され、それらの遺骨は今もそこに埋められたままだ」という生々しい目撃証言が寄せられ、10年かけて証言集「風よ 鳳仙花の歌を運べ」が刊行された。
その後、歴史の風化を防ぐ追悼碑の建立などの協力を求め、墨田区議会に陳情したが不採択。また、行政に河川敷の八広水辺公園にむくげ植樹の要望をしたが、拒まれ、国には河川敷(国有地)からむくげの花壇を2010年までに撤去するように通告されたことなどに触れた。 同氏はこうした経過を踏まえて、多くの人々に募金を呼びかけて土地を購入し、追悼碑を建立できたと報告した。現在、募金は700万円を超えたという。 続いて、東京・江東区亀戸にある浄心寺の野村盛彦住職があいさつし、「長い間の念願がかなって、心のこもった追悼碑ができてうれしい。みなさんのおかげであり、感謝したい。40年近く前に、絹田さんと出会って、初めて事件のことを知り、犠牲者のみなさまの追悼を毎年、ほぼ欠かさず続けてきた。いまだ世界では戦火が止まず痛ましい犠牲が絶えないが、日本は隣国である韓国、北朝鮮、中国と仲良くして、平和と友好の隣人関係を築いていかなければならない」と述べた。 総連墨田支部・金東石委員長と民団葛飾支部・申正意支部団長もあいさつし、日本の多くの人々が志を寄せ、立派な追悼碑が建立したことに謝意を表した後、今後も事件の真相究明と犠牲者の追悼に取り組んでいきたいと述べた。 献花の後、近くの集会所で交流会が行われた。参加者たちは、「悲惨な死を遂げた人々の無念の思いを心に刻み、今後も平和を願い、日朝友好活動に取り組んでいきたい」「歴史の闇から真実を明らかにして、再びこのような事件が起きないよう、両民族の未来をつないでいけるよう努めたい」と話していた。 なお、5日、午後3時から、墨田区荒川河川敷木根側橋下手(京成線「八広」駅下車)で追悼式が行われる。(朴日粉記者) [朝鮮新報 2009.9.4] |