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「踏襲」と「頻繁」−「空っぽ」の言葉と歴史の否認

 踏襲を「ふしゅう」、頻繁を「はんざつ」、未曾有を「みぞうゆう」と読んだ麻生首相の日本語力。いろいろな人がこの国の行方を心配している。

 「この国のトップといわれる人たちは、ほんとうに『空っぽ』なのではあるまいか、と。演説や本で空疎なコトバを連ねていたアベさん。でも、フクダさんはそれすらなかった。そして、アソウさんに至っては、完全真空ではないかと思えてきたのである」(週刊現代12月6日付高橋源一郎氏コラム「おじさんは白馬に乗って」)

 漢字が正しく読めるかどうか、この際置くとしよう。もっと深刻なことは、日本の指導層の、侵略戦争や植民地支配を肯定、美化する言動である。「日本が侵略国家というのはぬれぎぬ」とのたまう航空幕僚長まで現れた。彼らの共通点は、靖国神社を崇拝し、「従軍慰安婦」問題を否認、南京大虐殺や強制連行を「なかった」と主張することだ。

 麻生首相も外相時代に「創氏改名は朝鮮人が望んだ」「台湾の教育水準が高いのは、日本のおかげ」などと発言した。

 この種の妄言は日本では今や日常茶飯事。比較するのも申し訳ないが、ドイツのローマン・ヘルツォーク大統領(当時)は94年、ナチスに抵抗して立ち上がった「ワルシャワ蜂起50周年」式典で、こう語り始めた。「身の毛のよだつ歴史に対して、偏見のない開かれた目で向かい合うことによってのみ、相互理解ははぐくまれる。何も付け加えず、消し去らず。何かに口を閉ざすこともなく、何かを相殺することもなく」。そして、「何百万人の人々がざんごうのなかで、銃弾のなかで、ガス室のなかで、そしてワルシャワの路上で死んだのです。ドイツ人があなた方になしたことをお許しください」と結んだ。

 真摯な謝罪、歴史への責任を受け止める潔い言葉である。(粉)

[朝鮮新報 2008.11.28]