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〈李載裕と三宅鹿之助の邂逅 〉 金日成抗日遊撃隊に連なる闘い

「治安維持法」で懲役3年の判決

「朝鮮共産運動潰滅の最後の陣」などと大書した毎日申報(1937年4月30日付)

 官憲にとって「李載裕の脱走」は大失態であった。しかも「警察部長自ら」鄭泰植、権榮台を取り調べ、「所轄検事正及上局に経伺の上」三宅検挙に踏み込んだにもかかわらず李載裕を取り逃がしたのである。朝鮮総督府官憲の、三宅鹿之助に対する憎しみは「倍加」したであろう。「日本人の、しかも京城帝大教授ともあろうものが、朝鮮人共産主義者を匿うとはなにごとであるか」。

 1934年12月27日京城地方法院は、三宅鹿之助に対して「治安維持法違反、犯人蔵匿」の罪名によって「懲役三年」の「判決」を宣告した。「判決」が主要な「犯罪事実」としたのは「犯人蔵匿」の事実よりも「李載裕との提携」であった。すなわち、李載裕が三宅鹿之助に対して「当面の最重要任務は朝鮮共産党の再建であり、そのために全国的政治運動方針の確立、政治新聞の発行、宣伝煽動のための出版活動が必要で、特に政治運動方針の確立が緊急だと提案」し三宅が賛同。「六、七回大学官舎で会合」し「政治運動方針のプランを決定、草案を作成協議」した。この「会合」は「昭和8年12月中旬から翌年1月15、6日まで」なされた、としたのである。

 「判決」が「認定」したこの「犯罪事実」は、後年の三宅鹿之助の「回想」と大いに違っている。三宅鹿之助は「事件」から30余年後(1966年)に行われた「座談会」で、李載裕が脱走してきた1934年4月14日の朝について、「ある日見知らぬ朝鮮人が私の家に飛び込んでき」たといい、「座談会」出席者からの「かくまった朝鮮人は何者なんですか」との問いに対して、「今でも名前も知りません。第一全然聞く気がありませんでした。(略)あとで検事局の方から李載裕という共産党員だときかされましたが」と答えた。

 およそ1カ月の間に「六、七回大学官舎で会合」して、「朝鮮共産党再建」のための「政治運動方針のプランを決定、草案を作成協議」した相手について「見知らぬ」ということがありえようか。三宅は、教え子の鄭泰植が「同伴」してきた李載裕に一度は会っている。だから「初対面」ではない。だが「一か月の間に六、七回会合」説は偽りであろう。まして、1933年7月には李載裕グループの検挙が始まっており、警察は李載裕を追跡していた。李載裕が頻繁に三宅官舎へ行ったとは考えられない。官憲は三宅鹿之助が李載裕と「朝鮮共産党再建のための全国的政治運動方針草案」を「共同作成」したことを「証明」するために、二人が数次にわたって「協議」したという「事実」を捏造したのである。

当時のままに保存されている西大門刑務所の獄舎

 「犯人蔵匿」は刑法犯罪である。しかし三宅鹿之助が宣告された「判決」は、治安維持法第2条(協議罪、7年以下の懲役)、同法第5条(金品供与、5年以下の懲役)に、刑法罪を「計量加重」した「懲役三年」であった。朝鮮総督府官憲は、三宅鹿之助を「朝鮮共産主義者との提携」の「罪」によって治安維持法で裁き、「重大政治犯」を「蔵匿」「逃走」せしめた京城帝大教授三宅鹿之助に「復讐」したのである。

 1934年12月27日「懲役三年、未決勾留算入六十日」の判決を受けた三宅鹿之助は、すでに7カ月余「勾留」されていた西大門刑務所に「既決囚」として収監された。「孤立無援、気がめいる心地」にあった三宅鹿之助は、「検閲が厳重」のもとに届いた大塚金之助からの手紙に「非常に激励」されたのであった。三宅鹿之助が「失職」し、大学官舎から「引越」した三宅ヒデは、朝鮮人の助力で古本屋を「開業」し、夫の「留守」中の2年半余を耐えぬいた。

 三宅鹿之助は1936年12月25日、「満期」前に西大門刑務所から「仮出獄」した。官憲資料は「奇しくも同日李載裕京畿道倉洞里で逮捕」と記述している。三宅官舎から脱出した李載裕は、警察の追撃網をかわして下往十里にアジトをつくり、さらに、このアジトを巧みに脱出してからは、楊州郡孔徳里で「農夫」として生活しつつ、「朝鮮共産党再建京城準備グループ」として「赤旗」を発刊するなど、最終的に逮捕されるまで果敢に活動を継続した。1934年4月14日西大門警察署脱走からは、実に2年8カ月であった。この間、京畿道警察部は懸賞金(5百円)をかけ、「全朝鮮の警察」が血眼になって追撃していたのである。三宅鹿之助が李載裕を「蔵匿」し、その「脱走」を助けたことの重大性は、朝鮮総督府官憲自身が誰よりもよく身にしみて知っていたのである。

 「京城帝大教授三宅鹿之助事件」は、植民地朝鮮において、日本人、しかも京城帝国大学教授という地位にいた人間が、朝鮮人共産主義者を匿って投獄されたという「稀有の事件」であった。

 「仮出獄」した三宅鹿之助は「(官憲は)朝鮮に住んではいけないとはいわないのですが、生活の途が無いので」日本に帰国した。三宅一家は「護衛(特高警察)づき」で下関に上陸、東京へ戻った。「ポンコツ屋(自動車解体屋)」「新聞販売店」などで糊口をしのいだ。特高の「お伴」は日本の敗戦まで続いた。

 西大門警察署を脱走して2年8カ月もの長期間不屈に活動を継続した李載裕を、「苦心」の末についに逮捕した朝鮮総督府官憲は「執拗凶悪の朝鮮共産党遂に潰滅す 元凶李載裕遂に捕縛」と「凱歌」をあげた。だが報道が「解禁」され、新聞各紙が「号外」を発行した1937年4月30日からわずか1カ月後の6月4日、金日成抗日遊撃隊が咸鏡北道甲山郡恵山鎮の普天堡を攻撃した。「金日成回顧録 世紀とともに」(6)によって知られるように、「李載裕の逮捕によって朝鮮共産主義運動は終わりを告げるにいたったと喧伝」した「毎日申報」特別号も目にした金日成抗日遊撃隊が、普天堡戦闘によって「朝鮮民族は生きている」烽火を敢然とあげたのである。とっさの決断によって「警察に追われている」朝鮮人を「引受け」、1カ月余にわたって匿い、官憲の執拗な追及に抗してかれの逃走を助けた三宅鹿之助の勇気の歴史的意義は、ここにまで連なっているというべきであろう。

 われわれは、振り返られないまま、歴史の底に沈められてしまってきた1930年代における三宅鹿之助と李載裕の邂逅を復権させなければならない。朝鮮統一が東アジア世界の新しい時代を切り拓こうとする時代に生きるわれわれに、かれらの苦闘は多くのことを語りかけるであろう。(井上學・歴史研究者)

[朝鮮新報 2008.12.1]