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〈李載裕と三宅鹿之助の邂逅 〉 京城帝大教授三宅鹿之助の逮捕

「一切の事情を聞かぬまま匿う」

 1934年5月21日早朝、京城帝国大学法文学部(財政学講座担当)教授三宅鹿之助(1899年生、1927年京城帝国大学着任)は、東崇洞の京城帝大に隣接する「大学官舎」で検挙された。

 「思想的に兎角の風評」ある三宅の動静を「厳重注意」していた京畿道警察部は、三宅が「最高学府たる城大教授」であるがために慎重を期し、数日前に逮捕した京城帝大助手鄭泰植および「在モスコークートベー(東方労働者共産大学)」卒業権栄台を「警察部長自ら徹底的に」取調べ、「愈々確信を得たるを以って所轄検事正及上局に経伺の上」「京城地方法院思想検事指揮ノ下ニ」三宅検挙にふみきったのである。

李載裕の脱走を伝える東亜日報(1935年8月24日付、「ソウル法大百年史資料集」より)

 三宅は「当初口ヲ緘シテ語ラサリシカ同日夜」鄭泰植および権榮台を「指導」していたことを「自供」、「翌二十二日ニ至リテ」さきに「京城西大門署ヨリ逃走セル李載裕ヲモ自宅床下ニ自由ニ起臥シ得ヘキ大穴ヲ掘リテ蔵匿穴居セシメ居タル事実モ供述スルニ至」った。警察が急遽駆けつけたが既に「李載裕ハ逃走所在ヲ韜晦」していた。

 官憲が三宅検挙にふみきった真の狙いは「西大門署ヨリ逃走セル李載裕」の逮捕であった。李載裕が西大門警察署を脱出した4月14日未明から既に40日が経とうとしていた。京畿道警察部はまさに血眼で李載裕を捜索していたのであった。だが、三宅の官舎の「床下ニ大穴ヲ掘リテ」身を隠していた李載裕を発見することに失敗したのである。

 5月17日に検挙された鄭泰植、19日に検挙された権榮台はともに、李載裕の行方を1カ月余になってもつかめていないという大失態に血眼になっていた官憲の追及に対して、「李載裕の所在」を供述しなかったのである。官憲は二人の供述が得られないまま、当たりをつけていた三宅の官舎に踏み込んだのだ。もし二人から供述を得ていたのであれば、三宅の家に踏み込みながら李載裕を取り逃がすというようなことは考えられまい。そして三宅鹿之助もまた、匿っていた男が身を移すまで、まるまる一日余の間「徹宵取調」に耐えぬいたのであった。

 1934年4月14日の未明に西大門警察署を脱走した李載裕は、1905年咸鏡南道三水郡(現在の両江道三水郡)出身。1926年末渡日、労働運動、高麗共青活動で逮捕され、ソウルへ押送、懲役3年6カ月を宣告された。32年12月満期出獄した李載裕は、金三龍、李鉉相らと朝鮮共産党再建京城トロイカを結成、ソウルを中心に労働者、学生を組織する地下非合法運動を展開した。この運動の過程で李載裕は三宅鹿之助に会っている。三宅の教え子である京城帝大生鄭泰植が33年12月中旬三宅鹿之助の官舎に李載裕を同伴、紹介したのである。この時李載裕は本名を名のってはいない。

 1933年の鐘紡スト以後、ソウルの工場街を中心に大々的な警察の検挙旋風が吹き荒れた。危険を察知した李載裕はアジトを移し検挙に備えたが、34年1月22日検挙された。3月中旬李載裕は看取が眠りこけた隙に窓から脱出したが、この1回目の脱走は失敗に終った。警察は李載裕に対して苛酷な拷問をくわえた。巡査二人が監視し、手錠をはめ足には大きな鉄の塊をくくり付けた。手足を縛り、腰には鈴をつけた。

1930年代の李載裕

 およそ半月後、手錠がはずされた。この時から李載裕は飯粒をつぶして足枷の鍵穴に入れて型をとり、牛乳瓶の蓋を曲げて鍵を作り足枷の鍵を開けられるようにした。着ていた服の裏地を切り取って変装用のマスクも作った。脱出成功事情については異説もあるが、解放後運動家が書いた「脱出記」によれば、李載裕の影響を受けた森田という日本人巡査の暗黙の助力によって脱出できたという。

 マスクをした男が警察署正門を過ぎる時、署の刑事だと思った巡査は「これからお帰りですか」とあいさつした。警察署前でタクシーに乗った李載裕は迂回しながら東崇洞へ行った。三宅鹿之助の官舎の塀を乗り越え、朝があけるのを待って、玄関のベルを鳴らした。

 李載裕は三宅鹿之助に、「自分は警察に追われている。かくまってほしい」といった。三宅は「一切の事情をあえてきかぬまま、宿をひきうけた」。応接間の床下に穴を掘り、李載裕はそこに隠れた。三宅鹿之助が検挙される5月21日までの38日間、李載裕はこの穴に潜んだのである。この間三宅は間島方面調査のため10日間ほど出張した。三宅鹿之助の出張中も妻ヒデ(秀子)が気丈に李載裕の世話をした。(井上學・歴史研究者)

[朝鮮新報 2008.11.28]