受け継がれる「朝鮮舞踊の名作」 |
若き舞踊家たちへ、世界に発信願う
日本で朝鮮舞踊の名作が初公開されたのは、1964年東京オリンピックの際に祖国の選手団歓迎公演が行われた浅草国際劇場でのことだった。 「金剛山の仙女」「扇の舞」、独舞「歓喜」、三人舞「寺堂の踊り」「チェンガンの踊り」などが披露され、私はそのすべての作品に出演したが、とくに独舞「歓喜」と三人舞「寺堂の踊り」は大盛況で、舞踊ではまれに見るアンコールが出て再度踊った。それ以後、三人舞「寺堂の踊り」は私の十八番となり、半世紀を越えて今なお踊り続けている。
「朝鮮舞踊の名作」の一大センセーションとなったのは1966年、67年の2回にわたって催された大音楽舞踊叙事詩「祖国の陽射しの下で」であった。 出演者3000人、スタッフ2000人の大イベント。内容は、朝鮮の植民地時代、解放、社会主義建設、人民生活向上、海外同胞生活などで、その歴史を詩・歌・舞踊で構成・演出した大規模の芸術作品であった。 大群舞「流浪の道」「吹雪! 吹雪!」「苦難の行軍」「解放の喜び」「ああ、われらの太陽」「復旧建設」「溶鉄は流れる」「海の唄−漁夫の踊り、真珠と珊瑚」「豊年満作−太鼓の踊り」「怒涛の南海」「われらの総連」。
これらの名作は祖国の一流の舞踊家たちによって金剛山歌劇団の舞踊手たちに伝授され、私たちが全国の朝鮮歌舞団と朝大生、朝高生らを手取り足取り指導した。 上演作品の中でもっとも大きな感動を与えた「苦難の行軍」は、祖国解放のための闘いの最中、敵の銃弾に倒れた少年ラッパ手の物語で、実話を舞踊化した作品だった。 その隊長役を見事に演じた当時の朝大生と総連21全大会(2007年)で40年ぶりに再会した。彼は現在、某県本部の委員長を務めるとのこと。私には彼がかつての「苦難の行軍」の隊長と重なって見え、大変誇らしく思えた。
1973年、万寿台芸術団の日本初演は、私たちが「本物」に出会った忘れられない出来事だった。 革命歌劇「花を売る乙女」と歌と踊りのアンサンブル公演。朝鮮舞踊の4大名作「雪が降る」「祖国のつつじ」「箕の踊り」「りんごの豊作」が披露され、金剛山歌劇団の舞踊家たちはこのチャンスを逃すまいと、迷惑を承知で1カ月以上公演先をついて歩き、朝鮮の4大名作などを貪欲に習った。 1974年には、金剛山歌劇団を母体とした在日朝鮮芸術団の初の祖国訪問が実現した。金日成主席の生誕62周年祝賀公演を平壌で行い、光栄にも主席と会見、「祖国に毎年来て公演しなさい」との言葉をいただいた。
それ以来祖国の愛と配慮の下、今日まで在日朝鮮芸術人は毎年祖国を訪問し、公演を行い、思う存分朝鮮の名作を学ぶ道が大きく開かれたのである。 昨年12月の金剛山歌劇団ソウル公演「朝鮮舞踊、北の名舞」は、南の同胞に朝鮮舞踊のすばらしさを伝え魅了した。想像するだけで胸が熱くなる出来事だった。これを機に多くの名作を掘り起こし、世界に発信していってほしい。 次代を担う若き舞踊家たちによって朝鮮舞踊の伝統が立派に受け継がれていることに感服する。 異国の地で手探りで始めた朝鮮舞踊の道。列車が通るレールの下の枕木を一つひとつ並べながら進んできた舞踊人生は無駄ではなかった。金剛山歌劇団は私の舞踊の故郷。永遠の発展を見守り、今後も恩返しをしていきたい。 朝鮮舞踊の名作のすばらしさを、より多くの人たちが観賞できる企画を切に願ってやまない。(任秋子、人民俳優、任秋子民族舞踊団代表) [朝鮮新報 2008.9.24] |