〈朝鮮と日本の詩人-67-〉 川田順 |
新羅の人々慈しむ心情吐露 栲綱の新羅の王のおくつきは鳥けだものら四方八面に立つ 遠き世の新羅の王のおくつきを今日の夕日のしずかに照らせる 多宝塔のほそき欄干をなよびかに月の光し流れたりけり 国は亡くしこの仏のみのこしたる新羅の人は愛しかりけり 高麗びとの打つ石砧まどほにもこの朝山にきこえ来るかも 川田順は1925年の夏から29年の夏にわたって朝鮮と旧満州を5回旅行している。そのときの旅情を短歌に託して歌集「鵲」を上梓した。 この文雅な歌集は「川田順全歌集」(1952年中央公論社刊)の中に自選118首に収められている。そのうち朝鮮の自然・風物・古跡などを主題にしたものが50首ほど選ばれている。 第1、2首は、新羅の文武王の墓を訪れた折の歌人の敬虔な面持ちが漂っている。「鳥けだものら−」は王陵の護石に十二支の神像が陽刻されていることを表している。「栲綱」は「新羅」の枕詞、「おくつき(奥つ城)」は墓所である。 第3首は名刹仏国寺を訪れたときに、月にしなやか(なよびか)に影宿す多宝塔のたたずまいを詠んだ感懐である。 第4首は国の興亡をこえて今に残る石窟庵を嘆賞しつつ、遠く新羅の人たちを慈しむ心情の吐露である。 第5首は朝鮮の代表的な生活文化の一端を、遠くに(まどほに)響く砧打つ音にのせた抒情の発露である。これらの歌に通底するモチーフは、すぐれた文化遺産と秀麗な自然に恵まれた朝鮮への憧憬である。 川田順は1882年に東京に生まれ東大に学んだ。15歳のときから歌づくりに励み、18年に処女歌集を上梓した以後「伎芸天」をはじめ「山海経」「青淵」「立秋」などで写実主義的な独自の歌風を確立し、歌壇に重きをなした。「西行研究録」「吉野朝の悲嘆」ほか古典の研究でも業績を残した。(卞宰洙・文芸評論家) [朝鮮新報 2008.9.22] |