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〈遺骨は叫ぶQ〉 岩手県横川目・旧中島飛行機地下工場

3カ所のトンネル突貫工事に270人が従事

敗戦後60年、明らかになった強制動員

旧中島飛行機地下工場の跡

 JR奥羽本線横手駅と、東北本線北上駅の間を北上線が走っている。岩手県側の横川目駅から徒歩で30分ほどの愛宕山の山裾に、高さ約2メートル、幅約2.5メートルのトンネルが4本、2005年に見つかった。太平洋戦争当時、軍用機のトップメーカーの一つだった、旧中島飛行機の幻に終わった特殊攻撃機生産用の地下工場の跡だった。しかもこの地下工場は、間組が請負い、朝鮮人連行者が働いていたことがわかった。

 敗戦後60年にして、初めて明らかになった強制連行の現場だ。

 旧中島飛行機(現在の富士重工業)は、太平洋戦争末期に国営に移管され、第一軍需工廠になり、巨大な軍需工場となった。東京の現小金井市に中島飛行機の三鷹研究所があり、機体の研究開発に当たっていた。米本土爆撃を目的にした巨大爆撃機「富嶽」のエンジンも設計された。

 戦争末期になると、米軍による空襲が激しくなり、工場は各地に疎開をはじめた。三鷹研究所も1945年3月頃に分散を開始し、「黒沢尻町(現岩手県北上市)を中心に疎開工場が作られた。黒沢尻で総務・設計を、花巻、水沢、岩谷堂、江釣子、藤根、横川目などで部品の製作や組み立てを行った。学校の床板をはずして工作機械を置いた分工場では、招集前の若者や学徒動員の学生たちが働いていた」(「岩手の戦争遺跡をあるく」)という。

旧黒沢尻中学校に疎開工場の総務と設計がおかれた(現黒沢尻北高等学校)

 旧黒沢尻町に疎開がはじまると同時に、愛宕山の山裾に地下工場を作る工事も開始された。

 このころになると、東北地方の各地も米軍の空襲が激しくなっていた。残っている資料によると、3カ所にトンネルを掘って奥に大きな工場を作り、陸軍が特攻専用に使う予定の軍用機「剣」(キ115)の部品を製造し、残りの2カ所には、熱処理工場を建設する計画になっている。

 3カ所で着工したトンネルは、間組が下請けし、横川目駅前に事務所を置いた。トンネルを掘る作業に連れてきたのが、約270人の朝鮮人だった。どこから来たのかわからないが、横川目駅に下車した朝鮮人たちを見た人がいる。

 「横川目国民学校芦谷分教場への登校途中、学校脇の木炭検査場の前で、私はすくんでしまった。それは炭で汚れた異様な身なりで、意味不明の言葉を交わす、頑丈そうな男たちがいたからである。大勢でひしめくこの人たちは何だろう。2年生の私には、地面から湧いてきたと考えるのがせいぜいだった。あの人たちは何をする人か、何を食べ、話している言葉は何語か。知りたがりの幼い私たちに、大人たちは口をつぐみ、何も教えてくれない」(遊佐ヒデ子)

 横川目村(現北上市)に連れてこられた朝鮮人たち、トンネルを掘る愛宕山の山裾周辺の農家の作業小屋に収容された。

 一つの小屋に10人前後が入ったが、一組の夫婦がいて食事作りなどをしていた。食料も十分に配給が来なかったようで、間組の人たちが地元の農家を回り、野菜などを徴発しては、朝鮮人に配っていたという。

 地下工場の建設は、突貫工事なので朝鮮人は二交代の12時間労働で働かされていた。監督は日本人で、1本のトンネルに数人が出入りしていた。手に長い棒を持っていたが、中には日本刀を腰に下げている人もいた。

 「私の家からトンネルを掘っている現場までは、200メートルくらいより離れていないので、よく見に行った。家には監督が一人泊まっていたので、邪魔だと追い立てたりはしなかった。朝鮮人はタガネで岩に穴を掘っていた。ときどき穴に水を入れては深く掘り下げていた。顔も体も泥だらけになっていた。交代でトンネルを出る時にダイナマイトを仕掛けてくるようで、外に出た後で爆発していた。トンネルの入口の所に鍛冶屋がいて、朝鮮人が持ってきたタガネなどを修理していた。爆発の後に次の交代の人たちがトロッコを押して入ると、岩とか砂を積んで出てきた。その岩などは、トンネルの入口に降ろしていたが、そこは小山になって、今も残っている。入口の所に間組が持ってきた鏨岩機が何台もあったが、コンプレッサーがないので使っていなかったようだ。一つのトンネルには、相当の人たちが働いているようだったが、数えてみたことがないのでわからない」(高橋哲夫)と語っていた。

 昔は、田畑にならない土地には、杉を植えており、かなり大きく伸びていたが、その木は伐らせなかった。トンネルが見えないようにするためではないかと言っていた。

 3カ所のトンネル工事の現場から、朝鮮人が何回も逃走した。だが、横川目駅ですぐに捕まり、小屋に連れ戻されてきた。逃げた朝鮮人を、日本刀を振り回して追いかける監督を見た人もいる。しかし、怪我や死亡した朝鮮人を、現場近くの人は見ていない。

 日本の敗戦後も朝鮮人は残っていた。間組で山の木を伐らせ、製材所で製材させていた。農家の作業を手伝い、米を貰ったりもしていた。

 「あの人たちが突然姿を消したのは、9月末頃」(遊佐ヒデ子)というが、間組では、下駄を履かせて帰そうとしたが、地下タビでないと帰らないと交渉しているのを見た人がいる。

 全体像はまだ不明だが、埋もれている朝鮮人連行者が働いていた現場は、ほかにもあるのではないだろうか。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.9.16]