〈朝鮮史から民族を考える 23〉 戦時下日帝の朝鮮農村収奪政策 |
農産物の生産力拡充と鉱工業への提供 アジア太平洋戦争時の朝鮮における労働力徴発については多くの研究があるが、徴発の源泉である当時の農村の状況と労働力徴発との関係についての研究は十分に進んでいない。当時、「朝鮮農村に課された最大の任務は農産物の生産力拡充と労働力の鉱工業への提供」(「朝鮮農村の再編成について」42年)であった。「労務供出」と農産物「増産」は、戦時下、日帝の朝鮮農村収奪の二大目標であったが、この二つは互いに矛盾する問題であり、これをどの程度まで「調和」するのか、ということが大きな関心事であった。 軍隊、「労務供出」などの強制挑発
日帝の人的資源収奪は、久しい以前から行われていたが、戦時体制下に入るや本格的に強行された。日帝は第73回帝国議会で「国家総動員法」を可決し、1938年5月4日には朝鮮に「勅令」をもって施行した。これに基づいて39年7月に公布した「国民徴用令」をはじめとして、それ以後、20余件の労務関係諸条例を発表実施した。こうして39年度から本格的に人的資源略奪―強制徴発が開始されたのである。 36年間におよぶ日帝の朝鮮植民地統治期間、海外流出人口数は約327万人である。その内、10年から38年までの約29年間の海外流出人口数は約168万人で総数の51.3%を占め、39年から45年までの約7年間の海外流出人口数は約159万人で総数の46.7%である。このように海外流出は、39年以後大量に増加している。 それ以後、日帝による各種強制徴発(国内外を含む)の概数は朝鮮内労働力=647万人、朝鮮外労働力=87万人(そのうち日本への労働力徴発=72万人 ※152万人という説もある)、軍要員(軍属)=38万人、軍隊=23万人、軍「慰安婦」=10数万人であり、総数にしておよそ805万人という膨大な数に達した。この巨大な数字は、45年現在の朝鮮国内総人口数約2576万人の、実に31.3%というおどろくべき率である。なお、45年現在の海外朝鮮人人口数は411万人(日本230万人、中国150万人、ソ連30万人、米国1万人)で、朝鮮内人口に対する比率は約16%である。 このような強制徴発は、男子生産年齢層を主な対象としたという点と、その源泉を農村へ求めたという点を併せ考えると、農村における労働力の構成に大きな変化があったものと推定される。このような変化は、また、戦時体制下における朝鮮農村のもう一つの「任務」である戦時農産物「増産」政策にも反映された。 戦時農産物「増産」への強制動員
従来、日帝の農業政策は、生産技術の前進を無視し、農村過剰人口に依存して、反当たりの投下労働量を増大する方向で推し進められてきた。しかし、30年代後半に入り、鉱工業地および都市への転出や日本への強制徴発による農村労働力の減少、また、戦時経済の拡大にともなう肥料・農具・農薬・家畜の減少、都市および鉱工業における労働需要を誘因とする労賃の高騰など、これら一連の諸条件は、すべて生産力拡充を阻害するものであった。 このような不良な生産条件のもとで、日帝がどのような「増産」対策を図ったのかというと、それは農村労働力の「集約化」と「調整」という名目で、肉体的な労働力だけを過酷に搾取して、不足労働力を補充しようとするものだった。 −「農村労働力調整」政策 朝鮮総督府は41年4月、「農村労働力調整方針」を決定し、その要綱を各道「知事」に示達した。その内容は「勤労報国精神」の昂揚強化、「農業共同作業班」編成と農具・役畜などの共同利用、「農業報国移動労働班」編成による農繁期労働力不足の補充、補充労働力としての婦人・児童・学生の強制動員などである。しかし、農村労働力の調整強化策は、「労務供出」が恒久的政策としていっそう強化される現状にあっては、一時的な糊塗策に過ぎなかった。とくに「共同作業班」は零細耕地による能率低下や、各農家間の経営規模の違いによって生じる利害の不一致など、内にいろいろな矛盾を抱えていた。こうしたなかで、日帝は、農業「増産」の「根本対策」としていわゆる「農村再編成」政策なるものを持ち出してきた。 −「農村再編成」政策 「農村再編成」計画は41年からすでに検討されていたが、42年に小磯国昭が総督に就いたときからいっそう強く推し進められた。この「計画の中核をなすところは土地と労力の配分を図り農業生産力を高度に拡充し農村をして完全なる臨戦態勢におかんとするもの」(「朝鮮農会報」41年9月)であった。すなわち農業経営の適正規模を地域ごとに設定し、これに基づき、生産性の低い下層農民らを処分して鉱工業労働力として提供し、残った適正規模の農家経営を安定させ増産につなげようとするものである。零細農民動員名簿が作成され、指名を受けた者は計画的、組織的に朝鮮北部の軍需工場地域や日本へと強制連行されていった。 一方、日帝は農業「増産」の中核として適正規模の農家(自小作・自作農)から「農家増産実践員」を指定して(約7万人)、農産物の「増産」「供出」を率先実践するとともに部落民を「指導啓発」しようとした。44年8月、「国民徴用令」が朝鮮にも適用されてから農村の労働力不足はいっそう促進された。このような状況のもとで総督府は、最小限の農業労働力を確保するために「農業要員」制度なるものを持ち出し、全国純農家男子生産年齢層240万人中、68.8%に相当する165万人を「農業要員」に指定した。しかし、この制度は、45年8月、日帝が滅亡したので、日の目を見ることがなかった。(康成銀、朝鮮大学校教授) [朝鮮新報 2008.9.5] |