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〈生涯現役〉 「ムグンファ」結成30周年を迎える〈上〉−チョン・ジョムドルさん

大きかったオモニの存在

 「咲いても咲いても果てない強い花のように」−愛媛のオモニたちの親ぼく会「ムグンファ」(89年改称)は来年、結成30周年を迎える。鄭さんは、ここでオモニたちの中心となり、活動を広げてきた。

 前向きで懸命、思いやりにあふれた鄭さんをオモニたちは、「モランボン(以前、経営していた焼肉店)のアジメ」と呼び親しむ。

朝鮮人のプライド

鄭さんはオモニたちの心の拠り所

 1937年、山口県小野田市(当時)で5人兄妹の次女として生まれた。アボジは、植民地時代に慶尚南道から強制連行されてきた。オモニもまた、アボジを追い渡日。アボジは炭鉱で、オモニは湿地を埋め立てる土木作業の重労働に従事していた。

 祖国解放を迎えたのは、小学校2年生の時。1年後に同胞たちの手で建てられた山口県朝聯小野田小学校に入ったのもつかの間、1948年には、日本当局による「学校閉鎖令」で学校から閉め出された。

 「警察が4〜5台のトラックに乗り、押し寄せてきた。学校を守ろうと、大人も子どもも、一丸となってたたかった」

 学校の看板を取られないようにと、幼かった鄭さんも必死にしがみついた。それでも警察は乱暴に大人たちを捕まえ、トラックに乗せ連れて行った。大人たちは、夜もオモニらがこしらえたおにぎりを食べながら、寝ずの番を張った。すると翌朝、警察が再びやってきて、ホースで水をぶちまいた。

「ムグンファ」のオモニたちと共に各地を旅行(95年3月、きのえ温泉)

 学校閉鎖後、青空学校で1〜2カ月学んだ後、日本の学校に転校を強いられた。

 6年生だったが、4年生に転入させられた。勉強ではとくに算数が得意で、いつも満点だった。「2つも年上なので負けたくない」という負けん気が少女の意欲を駆り立てた。

 友だちには「朝鮮人」とバカにされたこともあったが、勝気に言い返したという。「朝鮮人としてのプライドがあったから、周りからいくらいびられても、どうってことはなかった」と当時を振り返る。

1957年8月15日解放記念慶祝大会(山口県宇部市民会館)

 しかし、一度だけ悔しい思いをしたことがあるという。運動神経も抜群だった鄭さんは、運動会のかけっこでは常に1等だった。そんな子どもの姿を楽しみに、アボジとオモニが運動会に来た時のこと。オモニはチマ・チョゴリをキレイに身にまとって応援に来た。けれども鄭さんは、そのオモニを生徒たちがジロジロ見るのが恥ずかしくて、「どうしてチョゴリできたんか」とオモニに怒ったという。「今、思うと本当に申し訳ない。オモニは最高のおしゃれをして来てくれたのに」と後悔の思いをもらした。

 小学校を卒業したものの、中学校には上がれなかった。家事万端を引き受けながら、15歳から5年間、炭鉱で働いた。食事の支度などは、8歳の頃からやっていた。

 「3時過ぎたら、アボジにお金をもらって、お米の配給をもらいに行った。5時まで行かないともらえない。学校から家まで歩いて1時間20分。放課後にみんなと遊んだり、運動もやりたかったけど…」

朝青活動

 総連が結成され、朝青の活動にも精を出した。「路線転換方針が出され、『祖国統一実現、在日同胞の民族権利獲得』などというしっかりとした目標があったから、信念を持ってがんばれた」と語る。

 1954年「原水爆禁止広島平和大会」に参加。オモニは「学校で学ぶだけが勉強ではない。いろんな人の話を聞いて、本も読み、社会の中で学ぶのも勉強だと常々語っていた」から、アボジには内緒で、鄭さんと姉に米を5合ずつ持たせて送り出してくれた。「いつも広い視線で世界を見るように…。だから今の自分がある」。常に背中を押してくれたオモニの存在は大きかった。(姜裕香記者)

※鄭点★(★=石の下に乙)

[朝鮮新報 2008.9.1]