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〈朝鮮と日本の詩人-64-〉 鳴海英吉

いつだって平和は疑い深い

 もう それ以上は 言ってはいけない
 いつだって 平和は 疑いぶかい
 一九四五年四月六日 日本敗戦の年の春
 広島廿日市警察署で
 一人の朝鮮人が 自殺した
 調書では 午後四時半頃 首を括るとある
 朝鮮独立万歳・京城・三菱造船・応徴工
 思想犯・国本天弘
 留置場の壁に書かれた 遺言は
 調書にはでていない

 国本が生きていても 被爆死
 朝鮮人は 日米両国人に殺され
 あんたは 原水爆反対の 分裂を話す
 あんたたちの 踏みしめる 道
 何万の朝鮮人の死体の上を
 平和の歌を唄い 列を組んで歩く
 いや 全く違う そうだ全く違う
 李さんは 盃をきゅうと鳴らした
 だが 一九六四年の夏はそうだ

 右の引用は「屋根」と題する全5連39行の詩のうちの第2連と3連の全部である。詩人が李という朝鮮人を訪ねて話を交わすという形式をとっている。この詩人には、思想犯として捕えられた朝鮮人徴用工が、拷問に耐えかねて、壁に「朝鮮独立万歳…」と刻み込んで自殺した事実を、つとめて客観的に叙している。朝鮮人が、日本と米国の両帝国主義によって殺されたことへの同情と怒りが第3連の初め2行に込められている。ほかにも「被爆」という詩があり、そこに「突然ある日 畑のなかから 連行され/喚けば銃尻で殴り倒される/ふるさとは 沈黙の線に流れ/別れの挨拶もない 山・川・家族…/そのまま日本に連行され広島に」という詩行がある。

 鳴海英吉は1923年に東京で生まれ、18歳のときに治安維持法違反で検挙された。44年に一兵卒として中国をへて咸興に移動し、戦後シベリアに抑留された。詩集に「風呂場で浪曲を…」(75年)、「ナホトカ集結地にて」(77年)などがある。この詩は「鳴海英吉全詩集」(02年 本多企画刊)にある。(卞宰洙・文芸評論家)

[朝鮮新報 2008.8.25]