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〈遺骨は叫ぶP〉 沖縄 全島要塞化に朝鮮人軍夫を動員

宮古島の米空襲で千人以上が犠牲に

朝鮮人軍夫が掘った「特攻艇秘匿洞窟」(読谷村)

 1944年以前の沖縄は、「国内でもめずらしいぐらい戦争とは無縁の島々でした。戦備らしいものは何一つなく、郷土部隊をもたない唯一の県」(「読谷村史・5」)だった。しかし、ミッドウェー海戦の大敗後、日本軍の戦力は低下し、南洋群島は相次いで連合国軍の手に落ち、日本本土攻略へ向けて侵攻をはじめた。沖縄に攻めてくることが確実になったので日本軍部は、沖縄に南西諸島守備軍(第32軍)を創設したが、実戦部隊が来たのはサイパン島が落ちる直前の6月だった。しかし、「第32軍の任務は、沖縄を本土として守り抜くことではなく、出血消耗によってアメリカ軍を沖縄に釘付けにし、防波堤となることでした。これによって本土決戦を準備し、沖縄は時間稼ぎの持久戦の場」(「沖縄戦のはなし」)とし、天皇制を守り抜こうとしたのだ。

 守備軍は、沖縄で米軍と戦うため、飛行場建設や、陣地構築の作業を強行した。だが、地上戦が始まる前から沖縄の海や空は連合国軍に押さえられ、武器弾薬や食糧の補給はできない状態になっていた。守備軍の兵力では不足なので、徴用の名で働くことができる男女を動員したほか、食糧や資材などを供出させた。それでも労働力が不足して沖縄の要塞化が進まないので守備軍は、朝鮮から「軍夫」として沖縄に強制連行をしてきた。荷積作業に従事した人は「水勤隊」(特設水上勤務中隊)と呼ばれたが、実数はいまだに不明で、「1〜2万人の軍夫、千人以上の慰安婦」と言われている。国や県は調査をしていないため、統計にもない。

朝鮮人軍夫を追悼する「恨之碑」(読谷村)

 最初に朝鮮人軍夫が沖縄に上陸したのは、1944年8月10日だったという。上陸したものの宿舎がなく、那覇港から東町山城屋までの道路脇に野宿させられた。

 「那覇港近くの那覇郵便局のあった場所に、球部隊の兵站本部があった。ここに毎朝、朝鮮人軍夫が集結して各地へ派遣され、夕方には同じ場所に帰ってきた」(「沖縄に連行された朝鮮の若者たち」)

 この頃の沖縄は、あげて米軍迎撃準備中で、各地の突貫工事現場では、朝鮮人軍夫を必要としていた。とくに飛行場建設と、全島を要塞化する工事が強化された。各地で行われた飛行場設営の中でも、朝鮮人軍夫の犠牲が大きかったのは宮古島だと言われている。本島の8分の1の小さな島に、陸海の二つの飛行場を設営することになり、約1500人の朝鮮人軍夫が動員された。宮古島には、住民6万人、陸海軍3万人がいて工事をしていたが、制空海権を喪失して孤立した島になっていたので、主食や医薬品が底をついていた。しかも、飛行場設営の機材はなく、スコップ、ツルハシ、モッコだけを頼りに、三交代で働くため、栄養失調になっていた。とくに、朝鮮人軍夫は日本人の倍近く働かされる上に、食料の配給はしなかったので、飢えとマラリアで次々と死へ追いつめられた。

 1945年3月1日に途絶えて久しい2隻の輸送船が、弾薬や食糧を積載して平良港に入港した。水上勤務隊の朝鮮人軍夫が動員されて、積荷を降ろす作業中に約60機の米軍機が来襲し、2隻は爆発炎上した。この時に百数十人が犠牲となり、海岸に漂着した死体を警防団たちが焼いたが、ほとんどが朝鮮人だったという。日本の敗戦後、宮古島から復員した朝鮮人軍夫は、458人というから、千人を超える人が犠牲になっている。

 沖縄本島のやんばる(北部)では、陣地壕用の杭木や、造船材の伐採に朝鮮人軍夫が働いている。

 羽地国民学校に泊まり、名護山や羽地山から材木を伐り出し、トラックで運んできた。東村川田や大宜味村津波でも、材木の運搬や、船に積み込む仕事をしている。日本兵は、朝鮮人軍夫に対する「差別意識丸出しで、作業中、棒で殴り、足で蹴るなどの暴行は日常茶飯事であった。ある下士官は、この朝鮮人軍夫7人をスパイ容疑で殺したと、防衛隊員に語っていた」(「哀号・朝鮮人の沖縄戦」)という。

 米軍の上陸は、平坦地の中部(嘉手納村)だとする作戦方針が決まり、嘉数高台の陣地構築を急いだ。

 朝鮮人軍夫が軍用トラックで運ばれてくると、壕に使う材木を伐採し、馬車で運んできた。朝鮮人軍夫は、民間人より遅くまで酷使され、仕事が遅い軍夫を壕の前に縛り付け、みなの前で制裁を繰り返した。

 食料が少ない上に労働が過酷なのに耐えられず、逃亡者がよく出たという。知らぬ土地で、方向もわからないので、すぐ捕らえられた。手足を太いロープで縛られて中隊本部に引っ張られてくると、柱に縛り付けられた。

 そして、無期停食という処罰が下され、数日後に死ぬと、どこかへ運ばれていった。中には、山中で食糧を探せず、石を枕に餓死している軍夫もいたという。このように朝鮮人軍夫を差別し、虐殺に手をかした日本兵の記録が、沖縄戦の戦闘記録や体験記などに残されている。

 沖縄戦に強制連行された1万から2万人と言われる朝鮮人軍夫は「戦後に生き残ったのは3千人ぐらいでした。その実数は明らかではありません。慰安婦の生き残りは数人しか確認されていません」(「沖縄戦と朝鮮人強制連行」)。

 沖縄戦で死んだ朝鮮人軍夫や、慰安婦たちの遺骨は、敗戦後63年のいまも、日本の地下に知られないまま眠っている。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.8.25]