朝鮮オリジナルの舞台背景扱い35年 人民芸術家・安承大さん |
「舞台人の誇りを胸に」
日本各地はもとより北南朝鮮、そして世界中で多くのファンを魅了してきた金剛山歌劇団。その華やかな舞台を陰ながら支え続けてきた舞台人がいる。安承大・創作企画局長(58)もそのひとり。2005年、金剛山歌劇団創立50周年を記念して、安さんには朝鮮から「人民芸術家」の称号が贈られた。 安さんと歌劇団との出会いは66年。日本人による朝鮮人への差別が厳しかった時代、卒業後の働き口が見つからず悩んでいたところ、歌劇団の声楽家として活動していた兄が安さんを劇団に引き込んだ。 「当時は姉が帰国して、両親とともに私も帰国を考えていた。そんな時、兄に呼ばれて福井県から上京して、初めて見る大都会に興奮し、劇団の華やかな世界に足を踏み入れ、毎日のように地方を回り、人生が変わったように楽しかった」 舞台職人として劇団入りしたものの、数年後には任秋子・舞踊部長(当時)に細身の長身を買われて舞踊手に抜擢。4年ほど舞台に立った経験もある。「ファンレターももらってね」と破顔一笑。腰を痛めたことをきっかけに一時退団を考えるが、周囲に引き止められ留まることに。そして再び裏方に回ったのが72年、23歳のときだった。 「祖国」との出会い
73年には、万寿台芸術団の初来日公演が実現、同胞社会に一大旋風が巻き起こる。それは安さんにとっても「祖国を身近に感じた最も大きな出来事」だった。金剛山歌劇団が現在行っている「ピパダ」式歌劇(注)ともこのとき出会った。 「ピパダ」式舞台美術の代表格ともされる「幻灯」は、60年代、金日成主席が公演指導をする際に生まれたものだと安さんは語る。「主席の意を汲んで朝鮮の美術家たちが工夫を凝らし、手作業で幕に変わる舞台背景となる幻灯を制作した。それを73年の来日時に、日本の明るく、熱処理がほどこされた電球と組み合わせて、さらに発展させた。祖国の先輩たちとすばらしい舞台装置を作れたのがうれしかった。今、歌劇団で使用している幻灯は3代目になる」。 幻灯の魅力 朝鮮オリジナルのこの舞台美術は、日本では唯一、金剛山歌劇団だけが有している。日本の劇団四季や宝塚歌劇団ほか、南朝鮮の舞台関係者らも大いに注目しているという。 「舞台美術の役割は、主人公の内面世界を自然の情景を用いて観客に伝えること。その点、幻灯は明るすぎず、鮮明すぎず、ほどよく心の機微を表現できる」と安さんはその「魅力」を話す。
金剛山歌劇団は74年に祖国で歌劇「金剛山のうた」を習得し、日本公演を行うが、安さんの話によると歌劇団の公演で幻灯を使うようになったのはこの時からだという。 「73年の万寿台芸術団との出会いと74年の祖国訪問、そして金日成主席との数度の会見が、今日まで私ががんばり続けてこられた原動力だ」と安さんは言う。その腕には主席と会見した際に直接受け取った名入りの腕時計が今もはめられ、静かに時を刻み続けていた。 「主席が創り、総書記が発展させたチュチェ芸術の舞台を、日本では私が守らねばとの一念で今日まで突き進んできた。歌劇団の照明を守るのは私だ。それは私にとって、祖国を守り、民族の自尊心を守るものと考えている」 還暦を目前に控え、「最期まで舞台人であり続けたい」と願う安さんの胸には、今も「チュチェ芸術」を輝かせているとの自負がある。「舞台を通じて朝鮮の息吹を観客に伝え、同胞には民族の誇りを、日本人には平和と友好を、南の人には統一への願いを伝えたい」。 日本各地を回っていると、政治的な状況により劇場が右翼団体の街宣車に囲まれる場合もあるが、そんな中でも公演実現に向けて奔走してくれる人々がいて、劇場に足を運んでくれるお客さんたちがいるということが、劇団員にとっては大きな励みになっている。 「感想文にはよく、公演を観て力がわいたなどと書かれているが、たくさんの観客から拍手をもらい、逆に私たちも力を得ている。公演のたびに生きている喜びが沸々と湧いてくる。劇団には毎年若い団員が入ってくる。そういう若者たちがいるということも、私にとっては喜びのひとつになっている。若者からパワーをもらいつつ、これからもどんどんがんばらなくちゃ」 金剛団歌劇団は、今日まで7300回余りの公演を行い、1300万人を超える内外の観客を動員した。安さんは、「今年の公演も見ごたえ十分」と胸を張った。(金潤順記者) 【注】「ピパダ」式歌劇=傍唱を取り入れ、管弦楽と舞踊、朝鮮画に基づいた舞台美術を導入した全く新しい形式のオペラ。 [朝鮮新報 2008.8.18] |