〈続・遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家C〉 分断都市、共存・協力都市、そして古都の3つの顔 |
順調に伸びる工業地区、観光事業
約500年間、統一国家・高麗の首都として繁栄した開城は、1945年8月、朝鮮半島を不法に植民地支配した日本からの解放後、米軍によって引かれた北緯38度線によって北と南の二つの地域に分けられ、江原道などと共に分断の象徴の地として広くその名が刻まれるようになった。50年6月に勃発した朝鮮戦争以降、全地域が北に組み込まれた。 その開城市の中心部から東へ8キロの地点に位置するのが軍事境界線上の村、板門店である。ここで53年7月、米国との間で朝鮮戦争の停戦協定が結ばれた。その後も軍事停戦委員会や北南間の重要な会談、接触が板門店を舞台に行われてきた。 停戦協定による軍事境界線は、38度線を上下しながら240キロにわたって朝鮮半島を横断する。停戦ラインから北と南それぞれ2キロにいっさいの軍事装備、兵員の搬入を禁止した非武装地帯(DNZ)が設けられた。ちなみに南側は、76年から開始されたチーム・スピリット軍事演習に代表される米国の対北先制攻撃計画の下、78年6月から89年12月にかけて軍事境界線沿いに高さ7〜8メートル、底辺の幅10〜12メートル、上部の幅3〜7メートルの巨大なコンクリート障壁を築いている。 一触即発の危機
記者は、90年9月に開催された第1回北南高位級(総理)会談に同行取材する機会があった。板門店の北側区域から中立国監視委員会会議室の中間に記された軍事境界線を越え、南側区域に入り会談場所のソウルに向かった。 南側区域「自由の家」一帯は、北側に向けた監視塔を除くと観光地化されているだけに、いっけんのどかな雰囲気だが、そこから車で20分も行くと天高く翻る星条旗、迷彩服姿の米軍兵士、点在するトーチカ、監視塔、戦車と装甲車群、北に向けられた大口径砲が一気に視野に入ってきた。なだらかな勾配の森林地帯を抜けると臨津江が姿を現す。しかし、そこに架けられた橋は素人目にも破壊が容易な代物で、さらに江の両岸は鉄条網で遮られ朝鮮半島が停戦という名の戦争状態下にある現実を思い知らされた。 実際、板門店を舞台にして朝鮮と米国が一色触発の事態に直面したことがある。76年8月18日、米軍兵士が朝鮮側への通告もなしに共同警備区域内のポプラの木を伐採しようとした。朝鮮側は挑発行為だとして再三、作業の中止を求めたが米軍はそれを無視して伐採作業を続行し、結果的に武力衝突に至り米軍将校2人が死亡するなど負傷者が出た。 この事態に、南朝鮮駐留米軍と南朝鮮軍は臨戦態勢に入り、米政府はさらに空母など海軍部隊を朝鮮半島近海に急派した。これに対抗して朝鮮側も人民軍をはじめ予備兵力にも動員令を発令し軍事的緊張がいっきに高まった。 軍事停戦委員会を通じて、それまで往来が自由だった共同警備区域内でも軍事境界線を引いて両者の人員を隔離することなどで合意し事態は収拾された。 「わが民族同士」 朝鮮半島は、停戦という不安定な状況下にあるだけに、いつ、どういうことをきっかけにして第2の板門店事件のような危機が起きるかもしれない。しかし、2000年6月の北南首脳対面、6.15共同宣言の発表、さらに2007年10月の2回目の首脳対面と10.4宣言の発表によって、とりわけ開城は「わが民族同士」精神に沿った北南平和共存、交流・協力事業の象徴的な都市として認識されるようになった。それは2004年12月に稼動した開城工業地区、そして2007年12月から始まった観光事業によってである。 開城工業地区には南の企業72社が進出し、そこで働く北の労働者は3万84人となり、生産額は累計で3億7383万ドルに達している(2008年7月4日現在)。また、今年上半期の北南間貿易額8億8000万ドルのうち開城工業地区関連は約3億7000万ドルを占め、前期比88%の伸びを示した(同7月7日の統一部発表)。 一方、観光事業は日帰りコースだが、開始以来、一日当りの最大定員300〜350人がほぼ毎日、満員を記録するほどの大盛況ぶりである。こうした好評を受けて朴淵瀑布や市内に限られていたコースを王陵、霊通寺などにも分けて定員の増員に踏み切っている。 また、李明博政権の登場によって北南関係は冷却状態に陥ったが、開城観光事業はまったく影響を受けておらず、今年5月までに6万8000人が訪れるなど順調な伸びを見せている。 現在、開城は分断都市、そして共存・協力都市、さらに古都という三つの顔を併せ持っている。(=終わり、文−厳正彦記者、写真−文光善記者) [朝鮮新報 2008.7.30] |