top_rogo.gif (16396 bytes)

平和をつむぐ人々−「強制連行史」と向き合う

人々の言い知れぬ思い伝えて

謝罪を繰り返しても、犯した罪は許されないと語る野添憲治さん

 7月5日、戦時中に強制連行され重労働の末に死亡した朝鮮人の墓地とみられる八峰町八森の高台で「第二回発盛精錬所朝鮮人犠牲者慰霊式」が秋田県朝鮮人強制連行真相調査団の主催で行われた。総連秋田県本部の金孝敏委員長をはじめ関係者ら35人が昨年建立された標柱のそばにムクゲの苗を植えた後、献花。さらにそれぞれが、約70基の小さな墓石(自然石)に供えた。

 農道脇に広がる約300坪の原野に一定の間隔で造られた墓域。住民の証言などを元に、調査団事務局長の野添憲治さんが06年11月に発見した。戦時中、地元にあった発盛精錬所で強制労働をさせられた朝鮮人らの墓地だと見ている。調査団によると同精錬所には、1942〜45年にかけて計201人の朝鮮人が強制連行され、2割にあたる42人が「逃亡」したとされており、他県の調査の例では「逃亡」と記された人の多くが死亡していたことがわかっている。

 慰霊式では、在日朝鮮人3世の金英一さん(22)と県平和労組会議メンバーの三沢健さん(31)がそれぞれ追悼の言葉を読み上げた。

 金さんは「今日はじめて強制連行の現場に来て、半世紀以上もの長い間、放置され、誰の供養も受けられず、無縁仏になっている様を目の当たりにして、あまりにも無残な気持ちでいっぱいになった」と絶句した。

日朝の若者の追悼の言葉が参加者の心を打った

 また、娘の幸ちゃん(4)を連れて参加した三沢さんは「日本は古くは豊臣秀吉の朝鮮出兵、20世紀の初頭、朝鮮半島をはじめアジアに向けて侵略戦争を広げてきた歴史があり、日本への強制連行、拉致によって鉱山や発電所建設など過酷な条件の下での強制労働を余儀なくし、生きてふたたび祖国に帰ることのできない犠牲者を作り出した」と述べた後、日朝友好への決意を込めたメッセージを発した。

 「今、戦後63年が経過しようとしているが、日本はこの長い年月の間に犠牲者とその家族に対して謝罪や補償もしないまま、まるで何もなかったかのような、もっといえば、歴史を学ぶどころか、歴史をねじ曲げようとすらしている。戦争という過ちを繰り返さないためには、これまでの歴史に学ぶこと、次の世代へ引き継いでいくことが大切だと思う。そして、私たち青年が隣国、隣人同士の友人関係をもっと深め、平和な日朝の明日を力強く担っていきたい」と。

 近年、「みちのく・民の語り」(全6巻、社会評論社)、「シリーズ花岡事件の人たち−中国人強制連行の記録」(全4巻、同)を上梓した野添さん。花岡事件をはじめ中国人や朝鮮人の強制連行の聞き書きを約40年も続けてきた。その仕事は過去を抹消し、隠ぺい、忘却しようとする現実と格闘する厳しい歳月だった。

 「でも、いまが一番酷いな。世の中どんどん不安な時代になって、戦前の状況に似てきた。だからこそ、今ここで踏ん張って、歴史の過ちを繰り返し学ばなければ」と。

「発盛精錬所朝鮮人犠牲者」の標柱に花を供える参列者たち(7月5日、秋田県八峰町で)

 秋田の貧しい農家に生まれ、新制中学を終えるや、父親に従い、伐採夫という危険で厳しい重労働の「出稼ぎ」に、北は北海道から南は奈良県まで12カ所の山林を歩いた。命がけの伐採作業、気持ちの休まることのない飯場生活…。そんな逆境の中でも、決して本を手放さなかった。後に文筆生活に入ったのは、この過酷な体験に根ざす。

 誰のものでもない、自らの歴史に向き合い、真実を掘り起こす活動こそ、今求められていると力説する。

 35年前に花岡事件の本を出したときは、「何で日本の恥部をさらすのか」と2年間毎日、脅迫電話がかかってきた。しかし、ひるまず、日本の戦争が引き起こした歴史と格闘しつづけ、12年前からは秋田県内の朝鮮人強制連行の聞き書きを続けてきた。その一方で、 全国各地の35カ所の事業所を調査、朝鮮人、中国人の強制連行の足跡をたどっている。

 「どこも骨がいっぱい出てきますよ。まさしく日本中、朝鮮人と中国人たちの血と涙の跡がない場所はない。きちんと埋葬もされていない。いまも消息を待ち望んでいる遺族の心境を思うと、謝罪を繰り返しても、犯した罪は許されるものではない」と野添さん。

 八峰町の約70基の墓石の周りを年に3〜4回草刈りし、花を供えている地元の農家の松橋信夫さん(70)は、「ここで犠牲になった人たちにも、親や子、友だちがきっといたはず。地元の人間として、墓を守り、できるだけの供養をしてあげたい」と語った。

 人々の言い知れぬ思いを聞き、記録する−そこに自らの経験をモチーフとして、野添さんが続けてきた仕事の豊かさがある。苦難の末に異国の地で犠牲になった人々への限りない共感が原動力となって−。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.7.25]