〈続・遥かなる高麗への旅 朝鮮史上初の統一国家B〉 「二君に仕えず」、李成桂 拒絶した忠臣たち |
王朝崩壊、喪に服した民衆 崔瑩(チェヨン)将軍の最期
蒙古の侵略に徹底抗戦した三別抄が元宗に鎮圧された後、高麗では忠烈王・忠宣王・忠粛王・忠恵王・忠穆王・忠定王と蒙古に忠誠を誓った6代の王が続いた。果敢に反元政策を推し進めた恭愍王の時代に一人の英雄が現れた。崔瑩将軍である。倭寇の討伐で頭角を現した崔瑩は恭愍王を警護する于達赤(護衛隊員)に昇格、鴨緑江西の八城を収覆するなど数々の戦功を上げた。 1359年12月、紅巾賊が4万の大軍で西京・平壌を侵攻した時、また開京を侵攻した1361年、賊軍を撃退し一等功臣になった。 1363年、恭愍王の命を狙った「興王寺の変」で乱を鎮め、1364年、元の奇皇后が恭愍王を除去しようと崔儒に1万の軍勢を与え鴨緑江を越えてきた時にも李成桂と義州で敵軍を殲滅させた。 1376年7月、三南地方に侵入した倭寇討伐に向かった朴元模が惨敗した後、崔瑩は出兵を志願し「鴻山の戦闘」で倭寇を壊滅した。1374年に恭愍王が暗殺された後も崔瑩は六道都統使(総司令官)に任命され、1388年には守門下待中(首相)になり高麗王朝を最後まで支えた。 1388年2月、元を滅ぼした明は高麗に使臣を送り鐡嶺衛より北の領地を差し出すように脅迫してきたが、崔瑩は屈することなく断固反対し瑀王に遼東出兵を促した。 1388年5月7日、李成桂の率いる軍隊は鴨緑江の中洲・威化島に至るが「小国が大国を討つことは難しい、農繁期に百姓を戦争に駆り立てるのは望ましくない、軍隊を移動させれば倭寇に狙われやすくなる」などの条件を並べ軍隊を引き返してきた。 八道都統使として王と平壌に残った崔瑩は、開京に戻り城門を閉め反乱軍と戦ったが敗れて李成桂に逮捕された。高陽(ソウルに隣接する地)に流され合浦に移された崔瑩将軍は開京に戻され「攻遼罪」で斬首された。剛毅にして清廉潔白、高麗の忠臣で守護神であった老将軍・崔瑩の死が伝えられると民衆は家の門を閉め、涙を流して喪に服したと伝えられている。 杜門洞の忠臣たち
李成桂の易姓革命以後、高麗王朝に仕えた忠臣たちは「二君に仕えず」として職を辞して命を絶つ者、落郷して百姓になる者、商人に身を転じる者など「忠孝」の精神を余す所なく発揮した。 非業の最期を遂げた鄭夢周・崔瑩ばかりでなく開城には「杜門洞精神」として文臣72人と武臣42人の話が伝えられている。不朝峴の峠で満月台の王宮に向かいいっせいに礼を上げ、そのまま萬寿山・西杜門洞に向かった文臣72人、賓鳳山・東杜門洞に向かった武臣42人は朝鮮王朝に対する非協力を貫き、村から出ず李成桂の呼びかけには決して応じなかった。 彼らは不屈の精神を後世に伝えるため、手工業で生計を立て、後には全国に広がる商道を創設し「松房」の基礎をつくると同時に簿記と都家法(商工会議所のような制度)をつくった。 商業や農業・工業に縁のない彼らではあったが、李朝に屈さないためにも経済的な自立をするために生活の基盤を整えた。 李成桂の度重なる入朝勧告にも動かなかった麗臣に対し最後通告がきた。2カ所に出口を作り、東西の杜門洞を山のような薪で囲み火をつけたのだ。文武両斑114人は正座したまま、燃え尽きたことが後にわかった。 李成桂は朝鮮王朝の太祖となったが、高麗王朝の忠臣たちを取り入れることはできなかった。 また、高麗王朝に忠誠を尽くした忠臣たちの精神は朝鮮王朝の士大夫たちにも継承された。(文−洪南基、写真−文光善記者) [朝鮮新報 2008.7.23] |