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〈遺骨は叫ぶO〉 北海道・倶知安鉱山 反抗すると「特別訓練所」で虐待

吹雪いた朝は部屋の中にも雨や雪

倶知安鉱山の跡

 太平洋戦争を支えた日本国内の有力な鉱山の労働者が、日本人よりも朝鮮人連行者の方が多かった所がある。褐鉄鉱の山として知られていた、北海道の倶知安鉱山(虻田郡京極町)もその一つで、日本が敗戦になった1945年8月15日現在で、「日本人=669人、朝鮮人=1004人、中国人=565人の、計2238人」と「京極村史」に載っている。全労働者の半数近くが朝鮮人だったのだが、それだけに犠牲者も多かった。

 倶知安鉱山は、地元京極農場の小作人が、1898年に発見したと伝わっている。その後、経営者は転々と代わり、1939年に日鉄興業鰍ニなった。日鉄では、北海道の総元締めとして北海道鉱業所を設置し、倶知安鉱山をその支配下に置いた。満州事変が始まると褐鉄鉱の重要が高まり、太平洋戦争に突入すると軍需省から出鉱量の増産を求められたが、労働力の不足でその要望を満たせなかった。日本国内では労働者を集められないので、倶知安鉱山では「社員を遠く朝鮮半島に派遣し、労務者の募集」(「京極村史」)をした。

 しかし、倶知安鉱山には、何年に朝鮮人連行者が来たかはわかっていない。兄の身代わりで徴用になり、仲間120人と倶知安鉱山に連行された全補純は、「1941年の暮れだったと思う。日本に来てまもなく、正月を迎えた」(「北海道と朝鮮人労働者」)と語っている。

 倶知安鉱山では「露天掘りをしていました。私の仕事は、初めのうちは発破の穴あけをしていましたが、その後、トロッコの運転に回された」というが、この頃から朝鮮人が急増したようだ。

村営墓地の「朝鮮人物故者一同之墓

 「京極村史」によると、倶知安鉱山に連行された朝鮮人の飯場は、社宅区域内の13カ所にあり、一つが特別訓練所であった。ここには逃亡して捕らえられた人や、不穏な行動をした人たちが集められ、訓練という名の下に虐待を受けていた。一つの鉱山でこうした施設を持っているのは極めて珍しいことだった。

 朝鮮人が収容された飯場は、朝鮮人が増加するのに合わせて増築したため、構造が一定ではなかった。入口が一カ所で、全館が一室になっているのと、中央の土間を挟んで両側に板戸つきの部屋が並んでいるのとがあった。しかも、にわか造りのため、板と板の継ぎ目が粗く、風が強い時は雨や雪が入ってきた。冬などは、広い部屋に一つのストーブなので、吹雪いた朝は、部屋の中が雪で真っ白になり、朝鮮人たちは寒さに震えたという。

 朝鮮人たちの労働時間は8時間で、一番方、二番方、三番方による三交代制で、休日はなかった。しかも、露天掘り鉱山の難点の一つに、冬期の豪雪があった。大雪が切羽や輸送経路に積もると作業ができないため、時間に関係なく、夜通し除雪の仕事をさせられた。

 栄養失調で体が弱っているところに、重労働が重なるため、多くの人たちが病人になった。病気になっても休日がなかったし、鉱山の診療所があるのに、寮長の許可がないと行けなかった。

 食事もまたひどかった。「芋、豆、かぼちゃが半分程度混ざった粗末なものが親子丼に軽く一杯、味噌汁、たくあんにおかずは、ほっけの腐ったようなもの、オットセイの肉がたまに付きました。オットセイの肉は臭くて食えたものではないが、腹が減っているので食べました。『腹が痛い』と言っても、満足な薬がなく、澱粉の粉を飲まされるだけです」(全補純)という状態だった。夏は裏山で蕗をとり、雑巾バケツを鍋代わりにして茹でて食べたりしたが、「仕事もつらいのですが、食べられないほどつらいものはなかったです」という。

 倶知安鉱山は、露天掘りなので炭鉱のような爆発や落盤はないが、切羽の崩壊や発破などの事故が起きた。その中でも、1943年に発生した切羽崩壊事故では、日本人2人と朝鮮人石山玉石が死亡した。敗戦後の1955年に在日朝鮮人団体の要求で、発掘作業をした時に日本人は発掘されたが、石山玉石の遺体は見つからなかったと「京極町史」に書かれている。

 そのほかに、「石山氏のほか鉱山殉職者として、鉱山神社に合祀されている人の中には、朝鮮人らしい氏名も2、3ある」「犠牲者氏名を見ると、朝鮮人労務者の氏名が昭和19年に2名、昭和20年に1名見える」とあり、これを合わせると5、6人になる。病死などもあったと考えられるが、何の記録も残されていない。

 ただ、1960年に町内の各寺院に預かっている遺骨を集め、「川西の村営墓地に共同の慰霊碑を建設し、丁重に葬った」(同)とあるが、碑には犠牲者数や名前などは刻まれていない。

 戦時中、鉱山主婦の会会長だった永田よしは、「終戦数年後、近所の人と山菜を採りに元朝鮮人寮から少し離れた谷地、この辺に事故死した人の遺骨が埋められてあると聞きびっくりしました。気のせいか土が幾分盛り上がった雑草の中に、朽ちた棒杭が倒れておりました。肉親の待ちわびる故国へ帰ることもかなわず、誰一人詣でることのない異境の山中に淋しく眠る故人に、咲きかけの野の花を摘み集めて供えた」と語っている。

 戦時中に倶知安鉱山で発掘作業をした約半数が朝鮮人連行者だったが、その後始末は、あまりにも粗末なものだった。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.7.22]