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〈生涯現役〉 済州4.3事件を生き延びた〈下〉−李性好さん

夫の死、絶望感を乗り越え

 解放を迎えた済州島。日本軍が去った島には、日本から戻ってきた6万人あまりの島民がひしめきあっていた。だがそこも安住の地ではなかった。日本に根こそぎ奪われた島の米びつは空っぽ。解放の翌年は麦の大凶作、さらに追い討ちをかけるかのように島全体にコレラが流行した。凶年に疫病。島民の心は殺気立ち、日本に変わる新しい支配者・米軍政への怒りは島全体を覆っていった。

「人間の仮面をつけた獣」

家族みんなに囲まれた李さん

 46年。ついに人々は立ち上がり、学生たちはペンを置いて、教室の外へ。その闘いは燎原の火のように燃え広がり、済州農業学校、五賢中学校では同盟休学運動が起こった。

 やがて燦鎬さんの勤務先の面役場でも、「日帝の残存勢力とその悪辣な手先どもを統治機構から徹底的に追放しろ!」「朝鮮独立万歳」のスローガンの下、全職員が闘いの前線へ。

 李さんも畑仕事に精を出し、家事をこなしながら、闘いに参加する日々。

 46年10月。大邱人民抗争の影響が済州島に波及。李さんは各家を回り、女性たちをビラ貼りなどに動員した。しかし、日増しに局面は悪化、米軍政の手先や警官らから付け狙われた。そんなとき、夫が警察に逮捕され、連日拷問を受け、1週間後に釈放。しかし、2人は信念を曲げることなく、その年の暮れ、南朝鮮労働党に入党。

 47年3月1日。第28回目の3.1節記念済州大会には約3万人の大群衆が済州北国民学校の運動場に集結。やがて平和的なデモ行進が始まり、警察監察庁のある観徳停にさしかかろうとしたとき、突然、騎馬隊が飛び出してデモ隊に無差別発砲。6人が射殺され、多くの負傷者が出た。「流血の惨事を目撃して人々は怒り、遺体をかついで抗議デモを断行した」と李さん。

 「本当に奴らは人殺しを平気でやる野蛮人。人間の仮面をつけた獣だ」と今も憤怒を抑えきれない李さんの声が震えていた。

若き日の李さん(左端)

 済州4.3の導火線と呼ばれる3.1事件。その直後から「西北青年団」の来島が増え、やがて彼らの手による白色テロが始まった。一方、ゼネストに参加した愛国者らは片っ端から捕まり、激しい拷問の末、犠牲となった。

 翌春、米軍政と南朝鮮の単独選挙に反対闘争はいっそう高まりを見せ、運命の日、4月3日を迎えた。

 夫婦は昼間は山を降りて、闘争に加わり、夜は山のアジトに身を潜めた。

 軍警らによる「赤狩り」や焦土化作戦が続くなか多くの同志たちの命が奪われた。食物も乏しくなり、誤って毒草に手を出し病に倒れたことも。夫とは別行動。ときたま、山中ですれ違っても固い握手を交わすのが精一杯だった。

 そんな中、李さんは日本に渡り、同志たちの食料や靴を調達してくるよう指示された。だが帰途、警察に捕まり、連日拷問を受けた。その頃は「アカ」を口実に愛国者たちが次々に処刑されていた。李さんは革の鞭で1週間全身を打たれたが、義父の奔走によって、生還。

 だが、その頃夫も逮捕され、すでに身柄は大邱刑務所に移送されていた。

 「夫の薬、着替えなどを持ち、さっそく大邱に向かった。そこに住む義姉と一緒に尋ねていこうとすると、すでに夫の身柄は教会に運ばれていた。胸騒ぎがしたの…」

 そこで変わり果てた瀕死の夫と対面。「夫の鼻はぐしゃっと折れ、片方の眼球はくりぬかれて顔中が腫れ上がり、およそ生きた人間の顔とは程遠かった。骨と皮しかない両手首には手錠が食い込み、ざくろの実が割れたように生々しく肉がみえた。そして、手の指の爪は全部はがされ、到底、正視できないほど凄絶なものだった」と。それから3日後、李さんの必死の看病にもかかわらず、夫は帰らぬ人に。翌日、かまどのように造られた焼き場の金網に夫の遺体を乗せ、荼毘に付した凄絶な体験。祖国統一をひたすら願い、行動した28歳のあまりにも短い生涯だった。

縁あって家族に

 壮絶な体験から来る絶望感と愛する人を奪われた喪失感…。李さんは家族の説得を受けて、49年末、大阪へ。紡績工場の知り合いの家に落ち着いて健康を取り戻した。やがて民族運動にめざめ、52年に女性同盟東成支部の副委員長、60年代初期に女性同盟東京・荒川支部委員長、東京本部委員長などを歴任。その後縁あって、47歳で、中級部3年を頭に5人の子どもを持つ人と再婚し、子どもたちをウリハッキョに送り、その成長を見守り、みな結婚させた。その矢先にまた夫に先立たれた。たった15年の結婚生活。だが、必死で家族を守りぬいた李さんを慕って、子や孫たちから届く手紙やプレゼントが李さんの心を幸福感で満たす。「親孝行の子どもたちに恵まれて本当に幸せ」と相好を崩した。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.7.14]