top_rogo.gif (16396 bytes)

〈生涯現役〉 済州4.3事件を生き延びた〈上〉−李性好さん

虐殺の狂風を免れて

記憶も鮮明に60年前の済州4.3事件について語る李さん

 済州島の4月はとりわけ美しいという。明るく鮮やかな菜の花が、島いっぱいに咲き誇るからだ。

 今年米寿を迎えた李性好さんの胸をせつなくさせるのもまた、幼い日、黄色の花畑のなかで遊んだ記憶だ。

 この年の女性としては珍しい長身(168センチ)にも恵まれ、弁も立ち、記憶力抜群の頭脳。平和な時代に生を受ければ、女性政治家として活躍したかもしれない。しかし、李さんは植民地時代の1920年に生まれ、青春時代に島民のほとんどがアカ≠ノ仕立てられて大量虐殺された4.3事件に直面、愛する夫や家族が犠牲になるなど艱難辛苦の道を歩まねばならなかった。

 3年前に住み慣れた関東地方を離れ、今は親族が近くに住む大阪・生野区の高齢者専用住宅に暮らす。

 あの虐殺の強風が吹き荒れた困難な時代をどう生きたのか。李さんの独白を2回に分けて紹介しようと思う。

「男(おとこ)女(おんな)」と呼ばれ

李さんが大阪に移る前、親せき一同で盛大なお別れ会を開いた

 李さんは島の最南端・翰林邑の出身。貧しい農家の5人兄妹の真ん中に生まれ、小さいときから女ながら「ガキ大将」。「村の悪童たちからつけられたあだ名は『おとこおんな』だった」。後に夫となった1歳年下の申燦鎬さんはじめ、みなを引き連れて島の山野をかけめぐった幼い日の思い出話をすると自然に笑みがこぼれる。

 しかし、無邪気な子ども時代は長く続かなかった。

 5歳でイモ(叔母)の家に子守りとして預けられ、辛い労働に明け暮れることに。そうこうするうちに今度は日本に出稼ぎに行っていた父が騙されて他人の保証人になり莫大な借金を背負ったため、兄姉も出稼ぎに日本へ発った。まだ幼かった2人の弟妹のめんどうを見るために実家に戻された。8歳だった。海女の母を助けて、まるで主婦のようにこまねずみのように働いた。

 「朝まだ暗いうちに一斗缶をかついで5キロの道のりを歩いて水運び。次はかまどに枝をくべて粟飯を炊く。朝食の後は、洗濯物を抱えて4キロほどの道を歩いて川へ。そして、水気をいっぱい含んだ重い洗濯物を背負い、家路へ。つぎはオンドルに焚く牛馬の糞を天日干しにした」。次から次へと重労働に追いまくられる日々。そして、息つく間もなく祖父と畑仕事へ。

 14歳になった年。貧しい働き詰めの李さんに願ってもない朗報が。文盲退治のために村の婦人親ぼく会が結成され、そこで学べることになったのだ。最年少だったが、人生で初めての「学び舎」。しかし、昼間、厳しい労働に明け暮れ、机に座ると睡魔に襲われるという悪循環。そのたびに先生の愛のムチがしなった。「性好、こうして勉強できることがどんなに幸せなことか。日本の警察に知られるとここは閉鎖される。ウリマルを使うことが罪なのだから。わが民族の悠久な歴史と美しい言葉を心して学びなさい」と諭された。

夫の学費を稼いで

 翌年、父の知り合いからの誘いを受けて、和歌山の紡績工場で働くため渡日。懐かしい父と兄姉とも会いたい一心だった。15歳を18歳だと偽って、姉がいた紡績会社の女工として職を得た。綿花のゴミとホコリが舞う劣悪な環境の下での立ちっぱなしの長時間労働と粗末な食事。栄養失調寸前の李さんはそこに見切りをつけて今度は兵庫県の紡績工場へ。「そこも同じようなもので、まるで生地獄。肺結核で死ぬ女工も絶えなかった。いったん病気にかかると病院にも行かせてもらえず、隔離されたままそこで死んだ人も多かった」。

 3年になろうとするとき、李さんは肋膜炎にかかり、母の待つ島に帰郷した。18歳になっていた。

 母の懐でやがて病を癒した李さんは、初恋の人でもあった燦鎬さんと結ばれた。当時、ソウルの京畿中学校で学ぶ燦鎬さんは、愛国的な家柄で育った好青年。義父の申在根さんは村役場の収入役であり、人望のある人だった。

 翌39年9月、2人は結婚式を挙げ、藁葺きの小さな家で所帯を持った。新婚生活は一カ月半で終わり、やがて夫はソウルでの勉学生活に戻った。婚家を助け、家事や野良仕事を続けていた李さんも、夫の学費の一助にと、再び兵庫県の紡績工場に戻った。

 42年10月から約2年間、一日10時間以上働いて、夫に送金。「苦労が報われて、夫が卒業して帰郷すると聞いたときは本当にうれしかった」と李さん。夫との暮らしに戻るため44年春、帰島。

 やがて島に吹き荒れる狂風前夜の、一瞬の平穏な風が2人を優しく包んだ。(朴日粉記者)

[朝鮮新報 2008.7.11]