〈人物で見る朝鮮科学史−62〉 中世末期の科学文化@ |
任元濬、天然痘の知識を整理
朝鮮王朝時代は壬辰倭乱を境に前期と後期に分けられる。前期の科学文化は世宗時代があまりにも華々しいので、その後の発展がかすんで見える。しかし、科学が蓄積されて伝承される知識であることを考えると、当然、その後もさまざまな展開があるが、とくに医学分野がそうである。なかでも、この頃から研究が深まったのが天然痘に関する治療法で、その契機となったのが任元濬の「瘡疹集」である。 周知のように現在は絶滅したが、天然痘は古代から伝染力が非常に強く、死に至る疫病として、また完治しても痘痕が残ることから人々に恐れられていた。朝鮮では天然痘は「胡鬼媽媽」という女の鬼神が取り憑いたものと思われ、巫堂によるお祓いが行われていた。そんななかで天然痘の知識を整理しその対処法を記した、現存する最古の朝鮮の医学書が「瘡疹集」で、それは天然痘に対する迷信と医学との戦いの歴史の始まりを告げるものでもあった。
1423年に生まれた任元濬はちょっと変わった経歴の持ち主で、21歳のとき官吏の登用試験である科挙に身代わり受験したことが発覚し、密陽府に流配されていた。ある時、密陽府使が巡行中に彼が優れた文才の持ち主であることを知った。そこで500人の妓生の名簿を見せると任元濬は即座にそれを覚えて、順番を間違えることなくすべて復唱したという。驚いた密陽府使はすぐに彼を登用するように世宗に進言した。世宗はそれを確かめるために、中国・魏の皇帝・曹丕が弟の曹植に7歩の間に漢詩を詠ませたという故事を引き合いに出して、任元濬に「春雲」という題を課し韻字を与えた。すると、任元濬はすぐに見事な詩を詠み、その才能を認めた世宗は彼に集賢殿の仕事を与えた。科挙を受けることができなかった任元濬は、儒教の経典ではなく医学・天文学などを究めることに専念、医学者として次第に頭角を現す。そして、世祖は任元濬に科挙の受験を認め、世宗時代に未完成のまま刊行された「瘡疹方」の増補作業を任せたのである。 「瘡疹集」は全3巻からなり、上巻は諸家論、中・下巻に天然痘の進行状況に合わせた治療法が書かれている。この本は1460年頃に刊行されたが、壬辰倭乱を境に失われたものと思われていた。ところが、数年前に中国・浙江省の図書館から発見され、その具体的内容を知ることができるようになった。 その後、任元濬は1477年に世宗時代に編さんされた「医方類聚」の刊行においても責任的役割を果たすなど、この頃には当代随一の医学者として知られていた。彼は1500年にこの世を去るが、もし科挙に身代わり受験をしなかったら医学者・任元濬は存在しなかった。まさに人生は奇なりである。(任正爀・朝鮮大学校理工学部教授) [朝鮮新報 2008.7.4] |