若きアーティストたち(58) |
舞踊家 李美姈さん 朝鮮国内の音楽芸術コンクールで、若手の登竜門といわれている「2.16芸術賞」個人コンクール。今年2月に、第18回を迎えた同コンクールの舞踊部門に出場、3位に輝いた。 コンクールに向け5〜6カ月間、朝鮮で本格的に練習を積んだ。練習漬けの日々。ただ指導の先生を信じ、練習に打ち込んだ。 コンクールには、祖国の人に負けないくらいの「在日パワー」を発揮しようという意気込みで挑んだ。結果、祖国の若手舞踊家たちと肩を並べ、昨年11月から行われた予選を突破し、本選へと勝ち進んだ。 コンクールを終え、入賞の喜びよりも、「やっとスタートラインに立てた」という思いが強かったと素直に語る。また、何かに取り組むと一点集中するタイプで、それがアダになった部分があり、「休む勇気」が必要だったと振り返るその表情からは、ひたむきな努力がうかがえた。そして、祖国の名高い先生にマンツーマンで指導を受け、こうして最高の舞台に立てたことに「祖国の愛を感じた」と心から感謝する。 初級部の頃は、バレーボール部で汗を流したスポーツ少女だった。そんな彼女が舞踊の世界に足を踏み入れたのは、初6の終わり。今では「とても感謝している」と話すが、当時、地元で朝鮮舞踊教室が開講し、人数合わせのため泣く泣く入ったのだという。中級部で舞踊部に入部したのもその延長だった。周りは基礎を積んできた生徒ばかり。自分一人ついていけず、ペアを組んでも足を引っ張るばかりで、初めは辞めたくて仕方がなかったという。 そんななかでも「負けず嫌い」な彼女は、懸命に舞踊と向き合った。
そして、いつしか舞踊にのめり込んでいった。舞踊は、作品の内にある思いを表現する。素直に感情を出せる。そのうえ、人に感動を与えられる。そんなところに魅了されていったという。その過程で、素直に感情を表せないという苦手意識を知らずに克服できた。 「人より覚えが悪いから…」と謙虚に語る彼女は、「みんなが10回舞えば、私は100回舞おう」と心がけている。弱点を補うために練習後や休日にも練習場へ足を運ぶ。 情勢が厳しい中での活動に同情の声をよく耳にするが、「全然、つらくない。寝て起きて、すぐに踊れる練習場があるだけで幸せ。楽しすぎて申し訳ない」とほほえむ。与えられた環境の中で、ここで踊る意味を見出すために、どれだけがんばれるか、常に前向きな姿勢で励む。 李さんにとって舞台は、「ありのままの自分をさらけ出し、赤裸々に朝鮮人と叫べる」場であり、それはとても快感だという。また舞踊は、表現のすばらしさや感謝の気持ち、チームワークの大切さ、生き方…さまざまなことを教えてくれる「師匠」と断言する。 入団6年目。「今、こうして思いっきり踊れるのは、ウリハッキョに送ってくれた両親のおかげ」と遠く離れていても、家族は常に心の支えになっている。 日本はもとより祖国、そしてソウルでも公演を行った。いずれは世界の舞台を夢見る。そのためにも「魂で踊れるよう、体の髄から出てくるような『本物の呼吸』をできるよう、スキルを磨いていきたい」と意気込む。 今月26日の西東京公演を皮切りに、08年金剛山歌劇団アンサンブル公演「大河」は全国巡演を行う。そこで、独舞「菩提薩」を披露する。より完成度が高いものにしようと、菩薩が展示されている美術館に幾度も足を運んだり、資料に丹念に目を通したりと、研究に余念がない。(姜裕香記者) ※1984年生まれ。西播朝鮮初中級学校、神戸朝鮮高級学校卒業後、03年に金剛山歌劇団入団。02年平壌音楽舞踊大学(当時)専門部卒業。初級部6年から朝鮮舞踊教室「舞姫」(兵庫県姫路市)に入り、朝鮮舞踊を習い始める。「4月の春親善芸術祭典」(平壌)やソウルなどで公演。08年朝鮮の「2.16芸術賞」個人コンクール舞踊部門で3位に入賞。主な作品に「月仙図」「ピョンゴの舞」「カゴパ」など。 [朝鮮新報 2008.6.16] |