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〈遺骨は叫ぶM〉 愛知・中島飛行機半田製作所 半田空襲で死亡した4割が朝鮮人

防空壕もなく避難命令伝わらず

雁宿公園の「平和記念碑」

 愛知県半田市乙川地区は、大正期に海を埋め立てて水田が造成された所で、農業を中心とした人口7000人ほどの静かな村だった。1942年の夏、突然この村で工場と飛行場用地の買収が始まった。田畑を失いたくないと農民は反対したが、「戦争に協力しないのか」と圧力をかけられ、仕方なく農地を手放した。その土地に造られたのが中島飛行機半田製作所である。

 中島飛行機は、中島知久平が1917年に創立した航空機製造企業で、群馬県の太田製作所、小泉製作所を中心に、陸・海軍機を製造していた。

 1942年6月にミッドウェー海戦で敗北した軍部は、軍用機生産の増産を要望した。これを受けて中島飛行機は、工場の増設を計画した。また半田市では、軍需工場を誘致して地域の発展を図ろうとしていた。両者の利益が一致したため、42年8月に中島飛行機の海軍機製造工場としての半田製作所の起工式を行い、用地の買収が始まった。

 用地の買収が終わると、工場敷地の造成は清水組(現清水建設)が請け負った。「造成工事に従事した労働者は、ほとんど在日朝鮮人でした。朝鮮人の土木業者が清水組の下請けになり、その組頭のネットで全国各地から集まり、また朝鮮南部から新たに家族連れで半田に出稼ぎに来た人もたくさんいました。この人たちは、工事現場近くの飯場といわれる粗末な宿舎で生活しました。その人数は、約5000人と推定されています。労災や空襲の犠牲になった人たちも多いようですが、くわしいことはわかりません」(「半田郷土史だより」)。この後の調査で、造成工事の在日朝鮮人犠牲者は、労災で一人、空襲で11人が確認されているが、全貌は不明である。

市営墓地の「精霊の碑」

 軍部の要請で半田製作所の操業開始は急がれたが、埋立地や田畑を整地し、その上に大工場を建設し、工作機械を設置するには時間がかかり、飛行機の生産が始まったのは、起工式から1年4カ月後だった。工場には群馬の小泉製作所から約1000人の工員を連れてきたが、不足し、学徒や徴用工も大量に使った。それでも生産は軌道に乗らず、兵隊も働かせて飛行機の組み立て作業をさせた。しかし、国内で労働者を集めるのは不可能になっていた。

 44年9月から朝鮮にも国民徴用令を適用した。国内の軍需工場では、軍需省に申し込んだが、半田製作所には1000人が割り当てられた。半田製作所からは「労務課員と従業員中の在郷軍人十数名が44年11月、北朝鮮の興南市で待機し、集められた20〜30歳の青年を、貸し切り列車で引率して釜山に向かった。途中、列車から5、6人が飛び降り逃亡した」(「旧中島飛行機半田製作所」)という。だが、連行してきた人数は書かれていない。「半田市誌」には、1200人の朝鮮人が連行されてきたと書かれている。

 92年に中島飛行機半田製作所「被保険者名簿」を半田市が公表したが、それには1282人の朝鮮人が記載されており、うち1235人が直接朝鮮から連行されてきている。

 半田製作所に着いた朝鮮人は、本工場から約2キロ離れた長根寮と新池寮に収容され、朝と夕に隊列を作り、日本人班長に率いられて出勤した。工場での作業は、艦上攻撃機「天山」や艦上偵察機「彩雲」などの部品工場、調整工場、全体組立工場などだった。朝は6時に起きて宮城遙拝をさせられ、集団で本工場に行き、残業で夜の10時頃まで働かされることもあった。はじめは作業の要領がわからず、まごまごすることが多く、見回りの海軍整備兵に棒で殴られた。また、整備工場では「腹が減った」と抗議したのに、仲間も連呼してパイス台を叩いた。組長がその一人を殴ったところ、逆に殴り返されて騒ぎになり、30人全員が棒で尻を何度も殴られた後、労働が厳しい炭鉱に送られた。

 45年7月24日の半田空襲で、半田製作所に連行されていた朝鮮人48人が死亡した。空襲で死亡した半田製作所の従業員272人のうち、40%以上が朝鮮人だった。

 朝鮮人には、防空壕がなかったうえに、日本語がわからないので避難命令が伝わらなかったと見られる。死体の多くは四散し、松の木に引っかかったり、着物は爆風で死体から剥ぎ取られていたという。この日の夕方、近くを通った動員学徒は、「松の木はほとんどひっくり返り、死体を俵に詰めるなどの収容作業が行われていた。『助けてくれ』の声が聞こえ、その時『どうせだめだから、放っておけ』『みんな朝鮮人だ』との会話を聞いた」(同)という。死体は近くで野焼きにし、遺骨は光照寺に預けた後、48年9月に集団帰国した同郷の人が持ち帰った。

 朝鮮人犠牲者は、このほかに「半田市誌」には病死者20人と書かれている。また、戦争末期に半田製作所は、地下工場を計画し、幅8メートル、高さ3メートルの横穴を9本も掘ったが、この時に落盤で何人かの朝鮮人が死傷したというが、それを裏付ける資料はない。

 空襲で生命を奪われた48人の朝鮮人は、中島飛行機の後身会社輸送機工業株式会社が、半田市の市営墓地に建てた「精霊之碑」に、日本人犠牲者と共に合祀されている。また、雁宿公園に建っている「平和記念碑」の袖垣に、朝鮮人48人の名前も刻まれている。しかし、「氏名不詳」とか「○○○の子3人」というのもあり、調査が十分でなかったことを知らせているが、その後に調べ直されることはなかった。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.5.26]