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〈遺骨は叫ぶL〉 北海道・夕張炭鉱 一日19時間働かせ、水も飲まさず

山の上に「監獄部屋」「タコ部屋」

夕張市に残る炭鉱の残骸

 財政破綻で揺れている北海道・夕張市本町から南に下ると末広地区で、昔は古い炭住が並んでいた。その西側の山の斜面に、末広共同墓地が広がっている。だがこの墓地には、太い木がほとんどない。戦時中に北炭(北海道炭鉱鉄道会社)が、坑道を支える坑木として伐採したからだ。

 北炭は、坑木を伐る山林をたくさん持っていたが、遠隔地から輸送する手間を惜しみ「墓地の木を伐れば罰が当たる」という、「ヤマの人たちの声を足蹴にして伐ったからだ」(「地底の葬列」)と言う。この末広共同墓地に、過酷な労働や、逃亡者に対する激しいリンチなどで死んだ仲間の霊を慰めるため、夕張鉱寄宿舎朝鮮人有志一同が建立した「神霊の墓」がある。

 異国の土となった人たちが、祖国、朝鮮をはるかに眺めるかのように西向きに建っている。

 1930年5月の建立というから、古いが北炭・夕張にはこれほど早くから朝鮮人たちが来ていた。

末広共同墓地の「神霊の墓」

 北海道庁の技師だった坂市太郎氏が幌内を調査したときに、石炭の露頭を見つけたのが1888年。翌年には北炭が創立され、夕張市で最初の「夕張炭鉱」は1890年に開坑された。

 開発が始まった時の坑夫は130人だったというが、「炭質が良く、埋蔵量が豊かなことから急速な開発」(「炭鉱−盛衰の記録」)が進められ、坑夫数も増加した。

 1894年に1480人だったのが、日露戦争後の1905年には、約4800人に増えていくが、その中で朝鮮人はどうだったのだろうか。

 大正時代(1925年前後)に北海道にいた朝鮮人労働者のほとんどが、石狩炭田の炭鉱労働者だったといわれている。北炭夕張には、1916年に35人の朝鮮人が入山したという記録があり、これが最初の大量採用の始まりのようだ。

 この人たちがどこから来たのか、また、その後どうなったのかを知る資料はない。しかし、北炭の中で「最も多くの朝鮮人労働者を使用したのは、夕張鉱業所であった。最盛期の1928年には、828人の数に昇っている。だが、1930年以降、国内の不況が深刻化するにつれて、朝鮮人労働者数は、100名を下回っていった」(「炭鉱に生きる」)が、こうした中で、朝鮮人たちは「神霊の墓」を建てたのだ。それまでに、どれほどの犠牲者があったのかはわかっていない。

 その後、大陸への侵略が本格化するにつれて石炭は増産され、坑夫などの労働力不足が深刻になった。北炭は、その不足分の補充を朝鮮人に求めたが、朝鮮人強制連行が始まった1939年の北海タイムス(10月9日付)は「半島人労働者第一陣職場の夕張各鉱に入山」の見出しで、「本道鉱山労働力の不足を補うため、遙々朝鮮から応募してきた半島労働者302名の一団は、職紹及炭鉱汽船係員に引率され、室蘭に入港し、追分経由7日午後6時38分夕張着、炭鉱汽船夕張鉱に入山した。一行は、最年少18歳から最年長40歳まで、大部分は20〜30歳の働き盛りの農村青年」と報じた。この以後、朝鮮人強制連行者は年を追って増加していく。

 だが、「朝鮮人労働者が宿泊する寮は、夕張では最も不便で、なおかつ逃亡しづらい山の上に集中していた。その寮は、『監獄部屋』『タコ部屋』と呼ばれ、窓には鉄格子があり、外には番犬を連れた不寝番の見張りがおり、まさに監獄であった」(「地底の葬列」)という。

 朝鮮で農業をしている時に、北炭夕張に連行され、坑夫として働いた安正玉は、「掘る所は広いが、そこまで這っていかなければならない。朝、炭鉱に入ったら、夜、生きて還ってこれるかわからない恐い所だった。ノルマで決められた仕事をすませないと外に出さないから、ひどい時は、朝の7時から19時間も働かされて、翌朝3時に外に出たなんてこともある。仕事中は、水も飲ませなかったし、便所にも行かせない。ちょっと休んでも、見つかると石をぶつけられる。下手をすると、皮バンドに水を付けて、全身を打たれ半殺しに遭う」と証言している。

 毎日の食事は、豆かすが主で、それも量が少ないのでいつも空腹だった。現場から帰るときに知らない家に入り、「飯を食わせてくれ」と頼んだが、食べさせる家はなかった。空腹で長時間酷使されるので、逃亡する人が出た。すると、番犬を連れた山狩りですぐに捕まり、見せしめに大勢の前でリンチを加えた。

 捕らえられた朝鮮人は「荒縄で縛られたまま引っ張られてきた。そして、革の鞭や棒で長い間殴られていた。その人は、全身血まみれになり、『アオー、アオー』と叫びながら死んでいった」(本間隆)と、目撃した人は語る。

 夕張市の朝鮮人連行者は、年ごとに多くなり、1945年には1万数千人にまで増加している。しかし、日本が敗戦になっても朝鮮人には知らせず働かせ、41日後の9月25日になって知らされた。怒った朝鮮人は、悪質な寮長や現場監督へ報復行動に出たので、鉱業所の幹部職員は、夕張市を離れて身を隠した。しかし、10月9日に朝鮮民衆大会を開き、朝鮮人労働組合の結成へと発展させた。

 組合は、北炭に死亡・負傷朝鮮人処置などを提出したが、会社側は、大量離山という状況を利用して要求を実現しなかった。

 夕張市の朝鮮人強制連行の実態は、いまもその多くが空白である。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.4.21]