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〈遺骨は叫ぶK〉 長野・平岡ダム 朝鮮人の累々たる屍の上に建設された

山奥の飯場は杉皮と板でできた掘っ立て小屋

平岡発電所に中部電力が建てた「慰霊碑」には「朝鮮人13名」とだけ刻まれている

 諏訪湖に源を発し、長野、愛知、静岡の3県を貫流して遠州灘に注ぐ天竜川には、多くの水力発電所用のダムがある。その中でも、最大規模を誇るのが平岡ダム(長野県下伊那郡天龍村)だが、日本人労働者のほかに、外国人たちの累々たる死屍の上に建設されたものだ。

 平岡ダムは、太平洋戦争が始まる前の年の1940年に、その当時、軍需工場が集中していた名古屋方面に大量の電力を供給するという、戦争遂行のための国家的要請に応えるために着工した。事業主は、日本発送電株式会社、工事は熊谷組平岡作業所が請け負った。

 しかし、日本人は招集や徴用にとられ、地元でもわずかしか雇用できないので労働力が不足した。

 「現在では、機械力を駆使するところだが、当時は人力とツルハシでそれを賄った。その人力とは、初期の頃は朝鮮人のことだ」(「日本のダム開発」)という。では、この朝鮮人たちは、いつどのように連行されたのかは資料がないので判っていないが、「日本の植民地であった朝鮮半島からは、この平岡ダム建設工事に、自由渡航で来た朝鮮人のほかに『官斡旋』という名の徴用(強制連行)による朝鮮人が約2000人来ていた」(「三千里」1982年2月号)と言われている。敗戦後の1946年7月に、長野県知事が厚生省へ提出した報告書には、「官斡旋で1921人」が平岡ダムの建設工事に来たと記されている。ほかの記録にも約2000人が来たとかかれているが、山奥の工事現場に膨大な数の朝鮮人が来ていた。

平岡ダム

 朝鮮人たちは、工事現場近くの十数棟の掘っ立て小屋に入ったが、「飯場は、丸太に杉皮や板を打ち付けただけのガラス窓一つない粗末なもの。高さも、人がかろうじて歩ける程度」(朴斗権)で、「宿舎は、まるで豚小屋のようなところ。山の中腹に作られ、飯場にムシロを敷いていたが、風が吹くと下から吹き上がってしまうほどスースー。とても人間の住む所じゃなかった」(「強制連行された朝鮮人の証言」)と、語っている。雨の日には、飯場の中を水が流れるので、湿度が高く、多くの人が皮膚病になった。

 日本に来てからは、衣服の配給がなく、ほとんどの人が着の身着のままであった。靴も破れると代わりがなく、藁を拾って足に巻いたが、人数が多いので藁もなかなか入手できなかった。夏はぼろぼろの服でもよかったが、冬は寒さに震えた。入浴ができなかったので、肌やぼろ服は垢で黒くなり、シラミがわくようについた。夜に毛布一枚を被って寝ても、シラミに食われて痒く、眠れなかった。

 食べ物も貧しかった。

 「食事は、パン食。パンは小麦粉と代用の米ぬかやフスマを6対4の割合で混ぜて作った。コッペパンに似た縦長のパンが一日3個と、塩水に近い汁だけであった。これでは到底空腹を満たすことはできず、近くの畑から野菜をかっぱらって来たりするので、何回か謝りに行ったこともある」(寺平政美)という。

 朝鮮人たちが歩いた飯場と作業現場の間の道端の草とか木の葉は、歩きながら取って食べるので、木は裸に、道端の草がなくなったと伝わっている。

 作業の内容は、河床の砂や石をツルハシで掘り出し、モッコやトロッコで運搬した。鉄道の貨車でセメントが着くと、60キロの袋を背負って運んだりした。仕事の時間は、午前6時から午後6時までだが、午前11時半から午後0時半までの1時間と、午前9時から午後3時からそれぞれ15分ずつの休憩という規則になっていたが、日本人の現場監督によっては短かったり、なかったりした。

 朝鮮人が休みを求めると、現場監督に殴られた。また、作業の準備などがあるので、実際は、起床は午前4時半頃。現場の後片付けをして飯場に戻るのは午後7時頃だった。

 夜になると、朝鮮人の飯場にカギがかけられた。逃亡する人が後を絶たなかったからだ。

 長野県知事が厚生省に出した報告書には、「1921人のうち、1575人が逃亡」と記されている。大変な人数だが、それだけ朝鮮人が置かれている状況は厳しかった。捕らえられると、リンチが待っていた。「怒鳴り声と大きな泣き声が聞こえるので、なんだろうと行ってみると、頭髪をトラ刈りにされ、上半身裸で、両手を後ろに縛られた、中年の体格の良い男が道路に座らされ、監視人から殴る蹴るし放題のリンチを加えられていた。男は、あまりの苦痛に大声をあげていたが、リンチは続けられた」(「捕虜たちがいた村」)

 あと、警察のブタ箱に1週間ぐらい入れられた。

 また、「栄養不良や労働環境の悪さから、事故や病気が多かった。1945年4月までに、少なくとも24人が死亡した」(「日本のダム開発」)が、ケガをしても死亡してもなんの補償もなかった。しかし、長野県知事の厚生省への報告書には、「死亡12名」と記されている。なお、平岡発電所に中部電力が建立した慰霊碑には、日本人犠牲者33人の氏名と「中国人15名、朝鮮人13名」と人数のみ刻まれている。だが、「工事の事故による死者が13名ということで、実際はもっと多くの死者が出ただろうと考えられます。村役場に保管されている埋火葬許可簿には、60名の朝鮮人の名前が記載されています」(「平岡ダム建設における外国人強制労働の実態」)という。また、連合軍や中国人犠牲者の氏名を刻んだ碑があるのに、朝鮮人連行者の碑は建っていない。朝鮮人は死んでからも差別されているのだ。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.3.21]