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〈遺骨は叫ぶJ〉 秋田・吉乃鉱山 発破で生き埋め、ダムに飛び込む人も

鉱さいダム工事中、相当な人骨を発見

山の斜面に残る選鉱場跡

 墓石が並ぶ上吉野集落の隣は、草が茂る平地に見えた。しかし、歩くと高低があり、高く土盛りした上に平たい石が置かれている。朝鮮人の墓だった。

 案内してくれた佐々木一郎の家は、共同墓地の管理人を代々やってきた。

 「いまは私がやっているが、戦時中は、祖父がやっていた。この墓地に吉乃鉱山で死んだ朝鮮人を埋めていた。私も子どもの時に何度か見ているが、朝鮮人の時は、二人が棺桶を担ぎ、鉱山の職員がついてきた。粗末な棺桶は、中が丸見えで、裸同然の人が素足のまま入っていた。役場の埋葬許可書も持ってこなかったな。埋めると、川から拾ってきた石を上に乗せるだけで、彼岸とかお盆に何もしなかった。盛り土は70近くある」

 70人近い朝鮮人の死者を出した吉乃鉱山(秋田県横手市増田町)は、1720年頃に発見され、1915年に設立した大日本鉱業会社の傘下に入り、巽鉱場、水力発電所及び鉄索を設けて本格的に開発され、その鉱石は県北の発盛精錬所に送られた。また、露天掘りも行い、鉱山額は増加した。「吉野地区には、11の組飯場が出現し、周辺農村からの労務者を含め、3000人近くを集めたという。その中には、200名ほどの朝鮮人も含まれていた」(斎藤実則「吉乃鉱山」誌)とあり、大正時代に多くの朝鮮人が来ていた。この朝鮮人は、どこから来たのか、どこに住んでどんな仕事をしたのかは資料もないし、知っている人もいない。

「無縁供養塔」の左側には上吉野集落の墓地、右側に朝鮮人墓地が広がる

 吉乃鉱山は、31年に住友資本の参加を得て、隣の増田鉱山を合併した。太平洋戦争が始まると軍需省から増産を要請され、精銅含銅を年間1600トン産出した。だが、労働力が不足し、周辺の農山村から勤労報国隊などを集めたが、それでも足りず、朝鮮人連行者を使った。この時に大正時代に来た朝鮮人は残っていたのかなどはわかっていない。

 46年に旧厚生省が調査した「朝鮮人労務者に関する調査」(秋田県)によると、吉乃鉱山に連行された朝鮮人は全員が徴用で、42年=74人、44年=48人、45年=44人の計166人となっている。しかも「個人ノ調査ハ書類消却ニ附不可」と書き込まれ、他の事業所のように個人の名簿は添付されていない。

 筆者は、十数年も前から何度も吉乃鉱山へ調査に行っているが、朝鮮人と一緒に働いたという何人かに会っている。だが、朝鮮人のことを聞くと、「そのことを言うと、どっかへ連れて行かれるのではないか……」と、口を閉じる人が多い。その中で高橋健一は、国民学校5年の時の事を、「あの時に連れてこられたのか、それともどこかへ移動する時なのかわからないが、十数人の朝鮮人が腰縄で数珠つなぎにされ、自転車に乗った日本人の棒頭(現場監督)に追い立てられていた」と話してくれた。

 吉乃鉱山に連行された朝鮮人は、明和寮という飯場に入った。仕事は、坑内での採鉱のほか、選鉱や鉱滓ダム工事などで働いた。「ダム工事現場では、相当数の朝鮮人が働いていたが酷使されていた。とくに、土砂崩れで死亡した人も少なくない。発破による山を崩す作業で生き埋めになった。ダムの広さは、1ヘクタールくらいあり、野球場ができるほどの広い場所だった。逃亡防止の棚がめぐらされ、責められて≠フ仕事だった」と、41〜45年まで朝鮮人と一緒に坑内で働いた、高橋長一郎の話を西成辰雄が記録している。

 また、「五十嵐洋一郎さんは労働に耐えられなくて、ダムに飛び込んで死んだ朝鮮人が2人いたと、ちゃんと見ているそうです。労働の状態は、堤防の上へトロッコで土を運んで埋めていたそうです。しかも、真っ裸で働いていたそうですから、とても見られたものではなかったそうです。一台のトロッコを3人から4人で押していたそうです」(横山秀一)と、苛酷な仕事の様子が語られている。

 このように辛い仕事に耐えられず、鉱山から逃亡する朝鮮人も多かった。高橋健一の家は、吉乃鉱山から近かったので、飯場から逃げた朝鮮人が何度も駆け込んできた。「そのたびに父は、握り飯を持たせて、見張りのいない隣の湯沢駅に送って行った」という。

 上吉野集落のほかにも犠牲者を処理した場所があったらしく、「カドミ汚染で吉乃鉱山へ取材に行ったことがあります。何か凄いところでしたね。たまたまテーラーを運転している人に話を聞いたんですが、その人が言うには、鉱滓ダムを造る時にそこを掘ったら、相当の人骨が出てきたっていうんです。それが、戦時中に強制連行して働かせた朝鮮人の死体じゃないかっていうんですがね」(清水弟「花岡事件ノート」)。その場所は、埋め戻され、跡地に草が茂っている。

 57年に吉乃鉱山は、休山となったが、6年後に地元の人が上吉野集落の朝鮮人墓地に「無縁供養塔」を建てた。99年に秋田県朝鮮人強制連行真相調査団は、地元の人たちと、旧吉乃鉱山朝鮮人労働者慰霊式を行った。その時に、墓地の草を刈り払ったところ、土饅頭は70近く数えられた。(作家、野添憲治)

[朝鮮新報 2008.2.25]