〈遺骨は叫ぶI〉 北海道・雨竜ダム 未発掘の遺体そのまま、実態の解明急げ |
ダムの堰堤に犠牲者らを放置
戦時中に各地で盛んに造られたダムや発電所の工事に、たくさんの強制連行された朝鮮人が働かされた。どこの工事現場も機械の使用はほんの一部で、モッコ、リヤカー、トロッコを人力で動かして大工事を進めたため、犠牲者が多く出た。 北海道でもいくつかの大工事が行われた。その中でも「貯水池の大きさは北海道最大」であり、この貯水池を利用する雨竜発電所は「北海道最大の水力発電所」(北海道大百科事典)と言われた雨竜ダム(朱鞠内湖)の工事では、朝鮮人の犠牲が大きい。このダムは、天塩山地に源を発する雨竜川の上流部に建設された。この工事を施工した雨竜電力は、三井鉱山の傘下にあり、1928年から10年間の調査ののち雨竜ダム建設工事(37〜43年)が行われた。工事は、五工区に分かれ、元請けは飛鳥組で、その下請に丹野組、谷組、柴田組、相沢組、長谷川組、安川組などが入っていた。 この工事に朝鮮人連行者が連れてこられたのは、39年からと言われ、最盛期には2千人から3千人が強制労働をさせられた。朝鮮人の飯場は、一棟に130人も入る大きなもので、窓には逃げないように鉄の桟がしてあり、出入口には、倉庫にかけるような大きな鍵をかけていた。「夜は頭を内側に、通路を挟んで両側に半分ずつねるんだけど、夜中じゅう、真ん中の通路を棒を持った監視人が行ったり来たりして見張っている」(尹永完)ので、隣の人と話をしても棒で殴られた。一つの飯場に監視人が30人から40人もいたという。
衣服は、中国から着てきたシャツの上に、ミノやムシロを着た。履き物は、ほとんどわらじ、冬は布団の破れたのやボロ切れを紐で足に巻き付けた。マイナス30度を超す厳寒の中で、こんな服装では耐えられず、ほとんどの人が凍傷にかかった。しかし、病院治療は受けられ、飯場で休ませることもなく、工事現場まで連れて行った。 食事は、飯台の上にアルミニウムのような食器に飯を盛ったのと塩汁が置かれ、立ったまま食べた。夜のオカズに塩マスとたくあんが一切れ出たが、これで重労働を一日に12時間から18時間もするのだから、どの人も空腹に苦しんだ。遠くへ働きに行く時は、弁当持参だったが、朝のうちに組の監視人や親方たちが弁当の中身を食べて、空の弁当を包んで持たせたので朝鮮人たちは、昼食抜きになった。空腹と苛酷な労働に耐えきれず逃走する人がよく出たが、ほとんど捕えられたという。飯場に連れ戻されると、柱に縛り、みなを座らせた目の前で見せしめに棒で殴った。気絶すると水をかけて気づかせ、また殴った。そのまま死ぬ人もいた。 雨竜ダム工事は、五工区に分けられたが、難工事で、多くの犠牲者が出たのが一工区と四工区だった。一工区は、雨竜川をせき止めるダムの堰堤を、四工区は第二ダムから隧道を掘って雨竜ダムに水を落とす工事だった。雨竜ダム工事の場合は、川の両側の山にワイヤーを張って吊り橋を造る。その上に足場を組んでレールを敷き、コンクリートを積んだトロッコを走らせるが、堰堤は45.5メートルと、目も眩むような高さだ。足を滑らして「何十メートル下のコンクリート打ち場に落ちるともうダメです。落ちるのが悪いというのでだれも助けない。そのまま上にコンクリートを流して埋めてしまう。ケガをして仕事ができないとなると、もう終わりです。どこかへ連れて行かれて行方がわからなくなった」(「朝鮮人強制連行・強制労働の記録」)という。 また、トロッコで運んだコンクリートが「流れ込んでくる下では、コンクリートを平らに馴らすために多くの人が働いていた。途中でトロッコがひっくり返って大きな石を含んだコンクリートが、下で働いている人たちの上に落ちた。下では必死に逃げるが、足元がコンクリートの生なので思うように動けず、石に当たってケガをしたり、死んだり」(「雨竜ダムを探る」)した人も、コンクリートに埋められた。堰堤には、多くの人が埋められていると、地元には伝わっている。 四工区は、隧道を掘る仕事だが、落盤事故が多く、一度に何人も死んだ。また、工事が難航したので、人柱にされた人もいたという。難工事中にどれほどの犠牲者が出たかは、はっきりしていない。58年の「幌加内村史」では犠牲者数が175人と記録されているだけで、日本人と朝鮮人の区分けは不明である。「笹の墓標展示館」パンフレットには、日本人168人、朝鮮人45人の犠牲者が出たとある。また地元では、「3日おきぐらいに一つの葬式が出た。工事期間中には、日本人、朝鮮人を合わせて千人ぐらいは死んだんじゃないですか」と言う推測を語る人もいるという。 1955年頃に役場職員が調査で朱鞠内共同墓地に行った時に、何度も足が土にめり込んで穴が空いた。ダム工事の死者を埋葬した跡だったと「雨竜川物語」に書いている。 後に空知の民衆史を語る会などでは、20体を超える遺骨を発掘しているが、未発掘の遺体がまだ残っているという共同墓地を歩きながら、一日も早く実態の解明をしなければと思った。地元の自治体は観光だけではなく、過去の事実を明らかにすることにも力を入れるべきだろう。(作家、野添憲治) [朝鮮新報 2008.1.21] |