神戸製鋼での朝鮮人強制連行真相調査団報告書 過酷な規律で奴隷労働強要 |
日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会が発表 朝鮮日本軍「慰安婦」・強制連行被害者補償対策委員会(被害者補償対策委)は8日、「日本の株式会社神戸製鋼所での強制連行・強制労働犯罪真相報告書」を発表した。朝鮮中央通信が配信した報告書の要旨は次のとおり。 ■ 被害者補償対策委は、日帝の軍事的占領時期に強制連行された朝鮮人被害者に関連する名簿に記入されている被害者とその遺族を捜す調査を行う過程で、日本の株式会社神戸製鋼所(神戸製鋼)の本社工場に強制連行されて奴隷労働を強いられた被害者たちを捜し出し、日帝の朝鮮人強制連行および強制労働犯罪の一端を資料的に立証したことに関連してこの報告書を発表する。 1、神戸製鋼に強制連行された朝鮮人被害者に対する調査経緯 日本で活動している朝鮮人強制連行真相調査団(真相調査団)は、1972年から北南朝鮮と日本、米国などで当該団体と緊密に連携して調査活動を行う過程に、日帝の軍事的占領時期に強制連行された朝鮮人被害者に関連する42万7129人の名簿を入手した。 この名簿には、かつて日帝が強制連行した朝鮮人被害者のうち、太平洋戦争勃発を前後して「徴用」「徴兵」「勤労挺身隊」、日本軍「慰安婦」などとして連行された一部の被害者が含まれており、「浮島丸」沈没事件の被害者と原爆被害者も記載されている。 彼らが強制的に連行された地域には、朝鮮国内と北海道、兵庫県、福岡県、長崎県、佐賀県、広島県、秋田県をはじめとする日本国内は言うまでもなく、中国やフィリピンなどアジア各国と太平洋上の小島まで含まれている。 名簿には被害者の名前と生年月日、本籍および連行場所、死亡日などが日本語で明記されている。 被害者補償対策委は2003年末にこの名簿を真相調査団から譲り受けて国内で公開し、2004年からその翻訳を行ったうえで各道の人民委員会をはじめ各関係機関のサポートを受けて朝鮮半島北半部出身の被害者と遺族を捜し出す調査を行っている。 「朝鮮人強制連行の記録」(兵庫編)には「1946年の6月から7月にかけて、厚生省勤務局は、勤発第337号『朝鮮人労務者に関する調査の件』(1946年6月17日付)という通達を地方長官(知事)に発し、全国の勤労署(現在の公共職業安定所)を通じて、管内の工場・事業所における戦時中の朝鮮人労務者についての一斉調査を実施」し、これにより当時1万3477人の朝鮮人が兵庫県内にある120余の工場、企業所に強制連行されたが、そのうちの413人が神戸製鋼の本社工場に連行されて奴隷労働を強要されたと記録されている。 われわれは、調査の過程に神戸製鋼の本社工場に連行された413人のうち、当時の平安北道から強制連行された人が140余人である事実を確認した。 また、この名簿の30巻−1(兵庫県)23頁の「梅本燦禎」が現在、平壌市中区域に在住の洪燦禎(1926年4月20日生)、「金田明奎」と「白川柄松」は両江道金亨稷郡で暮らし、死亡した金明奎(1922年9月10日生)、白柄松(1926年7月13日生)であり、「金山星浩」は「朝鮮人強制連行の記録」(兵庫編)を通じて金星浩であることがわかった。 2、日帝の強制連行と神戸製鋼で行われた強制労働犯罪 日帝による朝鮮人拉致・強制連行犯罪は、中日戦争に続いた太平洋戦争を契機にして狂乱的に行われた。 狂気じみた戦争は、日本の莫大な人的・物的資源の消耗を招いて国内の兵力と労働力を枯渇状態に陥れ、当時の資料によると、日帝は1944年だけでも206万8284人におよぶ朝鮮人を「徴用」「徴兵」で連行しようと画策した(「戦争責任研究」第51号50頁)。 同誌の51号には、「朝鮮で徴用動員対象になった17歳から40歳までの男子人口は390万5230人であるから実質的には2人に1人強という計算になる」とし、1944年だけでも17歳から40歳までの労働人口の約50%に達する人々を動員しようとしたと記されている。 日帝は侵略戦争で不足する労働力を朝鮮人に対する拉致、強制連行の方法で解決するために手段と方法を選ばなかった。 日帝は「募集」「官斡旋」(政府斡旋)の方法で強制連行を大々的に行い、朝鮮人に対する「徴用」「徴兵」を完全に義務化した。 日帝の強制連行は懐柔と欺まん、逮捕と拉致など肉体的・精神的強制を併せた手法で行われ、神戸製鋼本社工場に連行された青壮年の場合も決して例外ではなかった。 これについて、被害者の金星浩さんは「1943年11月のある日、村長の指示で面役場に行ったところ、前田繁三郎という日本人上級将校と2人の軍人がいた。 彼らは私に、日本の神戸製鋼に連れて行く人員を募集しに来たと言い、そこに行けば『徴兵』に行かずにすむから日本に行けと何度も説得した。私は拒んで逃げたかったが、捕まったりしたら大変なことになる。いやいやながらも返事をさせられた。その時の説得とは形だけで、実際は強制であった。その年の11月末、日帝は厚昌郡(当時)だけでも100余人もの青壮年を警察署に連行した」と語った。 日帝は、朝鮮から強制連行した青壮年に朝鮮国内である程度の見習いや訓練を行って日本に連行した。 被害者の洪燦禎さんは40余人の青壮年とともに松林(黄海北道)にあった兼二浦製鉄所(当時)に連行されて約1週間、作業現場で無報酬の強制労働を強要されたと述べ、「その後、日本人は私たちを釜山港に連行して関釜連絡船に乗船させた。連絡船にはすでに1000人ほどの朝鮮人が乗っていた。下関港に到着して間もなく私たちを列車に乗せて神戸製鋼に連行した」と証言した。 金星浩さんは100余人の青壮年とともに江原道の陸軍「練兵所」に送り込まれて約3カ月間、軍事訓練を強要されたとのべ、「日帝は1944年3月の初め、『練兵所』に来ていた1000余人におよぶ青壮年を関釜連絡船で下関港まで連行した。そのうちの500人は九州方面に、残りの500人は関西方面に連れて行き、私を含む厚昌郡から来た人々を神戸製鋼に引き渡した」と語った。 日帝は拉致、連行した朝鮮青壮年を強制収容所に閉じ込め、奴隷的規律を適用し、過酷な労働と労働時間を強要した。 洪燦禎さんは「神戸製鋼に着いた私たちはバラックの飯場に押し込められた。私たちの隊列・生活を監視、統制したのは中村という日本軍の伍長であった。翌日、中村は朝早く全員を起こし、食事を急がせて製鋼所に連行した。 私は製鋼所で炉まわり工として働いたが、熱い炉の前で一日14〜16時間働かされた。日本人は少しでも怠けたり自分の気に食わないとやたら暴行を働いた。2年余りの間、このような奴隷生活が毎日繰り返された」と証言した。 彼は、神戸製鋼での強制労働期間に休日は一切なく、外出は徹底的に禁止され、賃金は一度も手にすることができなかったと述べ、一日の食事も一握りの豆飯や米ぬかのコッペパン、豆がらに何切れかのたくあんだけであったと証言した。 また、金星浩さんの証言によると、日帝は神戸製鋼に連行した朝鮮青年を毎日、2交代制で危険な作業につかせ、朝鮮人は何の労働保護対策もない苦役場で酷使され、各種の事故や拷問、米軍の空襲などにより死ぬのが日常茶飯事であった。 洪燦禎さんは、「ある日、私は朝鮮人に嫌がらせをする中村伍長を殴ったことで憲兵隊の監獄に連行されて8カ月間、酷い拷問を受けた。 拷問で死んだ同僚も多くいたが、どこにもこのような事実は明らかにされていない」と語った。 金星浩さんの証言によると、日帝の敗北直前に自分とともに働いていた25人の同僚が日本海軍に「徴兵」され、沖縄戦で全員が死亡したという。 また、1945年に入り、神戸地区に対する米軍の大空襲により多くの朝鮮人が犠牲となり、日帝が敗北した時には故郷から一緒に強制連行された100人のうち50人しか生き残っていなかったという。 以上の証言と調査過程を通じて、当時の朝鮮人強制連行および強制労働犯罪に日本の軍部が深く関与していたということ、そして、太平洋戦争末期に行われた日帝の朝鮮人強制連行犯罪の特徴を見い出すことができた。 それは第1に、1938年の「国家総動員法」公布以後、日帝が朝鮮人をもっとも多く強制連行した所が主に、鉱山、炭鉱であったが、太平洋戦争末期には日本本土における「決戦」を控えて、国内の軍事基地建設場と軍需品製造工場に集中的に連行したこと、第2に、日帝が朝鮮を軍事的に占領した当初には主に南半部の朝鮮人を強制徴発したが、太平洋戦争末期には北半部地域を中心に多数拉致、連行したこと、第3に、強制連行された人々が人間以下の奴隷労働の過程に各種の事故と拷問、栄養失調と疾病、米軍の空襲などで無念の死を強いられ、朝鮮人被害者の遺骨が日本の地に放置されたことである。 3、朝鮮人強制連行および強制労働は特大型拉致行為、中世紀的な奴隷労働 日帝が朝鮮人民に働いた強制連行および強制労働犯罪は、その方法と内容、形式において中世の奴隷狩り、奴隷労働をほうふつさせる特大型の人権じゅうりん犯罪である。 朝鮮人強制連行および強制労働とは、日帝が19世紀末から20世紀中葉まで朝鮮に侵略の魔手を伸ばして朝鮮を軍事的に占領した期間、朝鮮人をあらゆる悪らつな方法で拉致、徴発し、死の侵略戦場と苦役場にかり出して戦争奴隷、労働奴隷、性奴隷にした行為の総体であると言える。 日帝は1894年に朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本人居留民を「保護」すると称して多くの兵力をわが国に送り込んで日清戦争を引き起こし、当時、清国の軍隊を攻撃するためであるということを口実にして軍需物資輸送と軍事道路建設に朝鮮人と牛馬を強制的に動員した。 日帝は朝鮮を強奪するために日露戦争の期間だけでも、数十万の朝鮮人を軍需品輸送と鉄道敷設などの工事現場に連行して無報酬強制労働を強要した。 日露戦争後、日帝は朝鮮を武力で占領し、前代未聞の軍事ファッショ統治を実施して朝鮮での強制連行を国策とし、その執行のための国家機構と悪法を動員して人的略奪にいっそう狂奔した。 日帝は朝鮮占領期間、840余万人に達する朝鮮人を手当たり次第に拉致、徴発して侵略戦争の戦場と苦役場に弾除け、労働奴隷としてかり出し、20万人の朝鮮女性を日本軍「慰安婦」に連行して酷い性暴行を加え、多くの人を虐殺した。 看過できないのは、日帝が朝鮮占領期間に実施した強制連行の方法のうち、もっとも典型的な方法の一つが拉致であったことである。 日本の図書「戦時期植民地統治資料」第7巻には、内務省が1944年に朝鮮で行った住民動向および邑、面行政状況と関連した報告書が編集されているが、これには「徴用ハ別トシテソノ他ノイカナル方式ニヨルモ出動ハマッタク拉致同様ナ状態デアル。ソレハモシ、事前ニオイテソレヲ知ラセバ皆逃亡スルカラデアル。ソコデ夜襲、誘出、ソノ他各種方策ヲ講ジテ、人質的捕奪、拉致ノ事例ガ多クナルノデアル」と記されている。 また、日本の戸田建設株式会社が発行した「社報」(1942年9月25日付)には、1942年8月12日、厚生省が催した会議に関する記事が掲載されているが、これには「(朝鮮)半島より大勢の人間を拉致して、主に軍関係の工場に就労させたのであった」「とにかく連れてきても過酷な労働を強いるものであるから、どうしても逃亡者が出た」と記されている。 「北海道と朝鮮人労働者−朝鮮人強制連行実態報告書」(1999年70頁)には、日帝が1944年5月に朝鮮から北海道に100人を強制連行する指示をしたことに関連して「…郡庁職員、警察署及面職員ヲ総動員寝込襲ヒ或ハ田畑ニ稼働中ノ者ヲ有無ヲ言ハセズ連行スル等相当無理ナル方法ヲ講ジ漸ク二十二日ノ出発日ニ辛ジテ八十四名ニ対シ令状交付輸送セル事件アリ」と叙述されている。 この他にも、日帝がわが人民に行った強制連行が事実上、拉致であったことを認める資料や文書はあまたある。 日帝の朝鮮人強制連行および強制労働犯罪は国際法に違反する重大な人権侵害罪として、日本政府は当然、これについて国家的責任を負うべきである。 にもかかわらず、日本当局は朝鮮人強制連行および強制労働をはじめ反人類的犯罪の歴史に対して正しく反省して謝罪し、賠償する意志を全く示さないばかりか、逆にその罪悪の歴史を隠ぺい、正当化して過去の犯罪の清算義務を回避しようと術策を弄している。 日本政府は朝鮮人強制連行犯罪、拉致犯罪など反人類的犯罪に対して「実定法上の補償根拠」と「証拠」がないと言い張り、とりわけ昨年の3月、ベトナムのハノイで行われた6者会談の朝・日関係正常化作業部会において日帝の過去の罪について客観的に認めることはできないと公言した。 日本は敗戦から半世紀以上が過ぎたこんにちまでも最大の被害国である朝鮮の被害者および遺族に対して心から謝罪せず、1銭も賠償しないばかりか、逆に反朝鮮・反総連策動の度数をいっそう高めている。 日本当局はわれわれに対する過去の清算は眼中になく、「拉致問題」を引き続き執ように取り上げて6者会談に人為的な難関をつくり出そうと策動しており、それを口実にして朝鮮に対する制裁と圧力をさらに強化している。 また、日帝が働いた朝鮮人強制連行犯罪の直接的な被害者とその子孫の民主的民族権利を擁護するための朝鮮の合法的な海外公民団体である総連を政治的、経済的、社会的に孤立、抹殺するために狂奔している。 朝鮮人強制連行および強制労働問題は、その被害者と遺族の精神的・肉体的苦痛が過去からこんにちまでも続いていることにより、これ以上先送りできない焦眉の人権問題、人道的問題になっている。 日本政府は、一日も早く過去の朝鮮人強制連行および強制労働犯罪に対する法的な責任を認め、生存する被害者は言うまでもなく犠牲者とその遺族に対しても徹底的に謝罪し、賠償すべきである。 また、日本政府は強制連行犯罪に関する資料と文書を早急に全面公開し、その真相を責任を持って究明すべきであり、犯人を捜し出して国内外の当該の裁判所において刑罰を科すべきである。 これとともに時代錯誤の反朝鮮・反総連策動を直ちに中止し、社会と次世代に過去の歴史の真実を正しく教える教育を行って侵略と犯罪を二度と繰り返さないということを実践で示すべきである。 被害者補償対策委は、今後も日本の過去の清算を求める国際連帯協議会をはじめ世界各国の進歩的団体との連帯を強化し、日帝の反人類的犯罪に対する真相調査を引き続き深めてそれを暴露、断罪し、われわれの強制連行被害者と遺族の血のにじむ恨みを晴らすためのたたかいを力強く展開するであろう。(朝鮮通信) [朝鮮新報 2008.3.21] |