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広島で被爆−在朝被がい者の証言− 日本政府は謝罪、賠償を

「私たちが死ねば解決するのか」

 【平壌発=鄭茂憲記者】日本で被爆して解放後、朝鮮に帰国した在朝被爆者たち。これまで放置したまま何もしてこなかった日本政府に対し、謝罪と補償を強く要求している。広島で被爆した3人から話を聞いた。

パク・チョンゴンさん

 胎児被爆者のパク・チョンゴンさん(62)。「日本政府の謝罪は母親の恨みを晴らす唯一の方法だ」と語る。

 パクさんの家族は、広島県賀茂郡で暮らしていた。「その日、母は偶然、市内に住む親せきに会いに行った。そして、家の前を掃除していて被爆した。太陽が二つできたように見えたそうだ」。

 胎児に被爆の影響が出ると、妊娠していた母親に周囲の人たちは出産を諦めるよう勧めたという。「私には3人の姉がいるが、息子がほしかった母は出産を決心した。そして私の胎児被爆を隠すため、被爆で流産した直後に私を妊娠したということにした」。

 パクさんの母は長い間、被爆症状に苦しんだという。1949年には、父と三番目の姉が不意の食中毒で死亡した。「母は病気の体に加えて苦しい生活の中で私を育ててくれた」。

 60年、当時14歳だったパクさんは、母と一緒に帰国した。

 しかし祖国での母との生活は、そう長くは続かなかった。

 64年4月、母は胃ガンと白血病を病み53歳で亡くなったのだ。

 「当時、私は18歳だった。あの時はガンの恐ろしさがわからなかったし、母の病気もよくなると思っていた。母は入院中、日本で暮らす姉に送ってやろうと病院で写真を撮った。その翌日に亡くなった」

 パクさんはそれから10年後の74年に結婚。翌年に長男をもうけたが1歳になる前に死亡した。「脳性麻痺だった。遺伝の影響かもしれないという思いがよぎった。しかし当時、私は胎児被爆者であることを妻にも話しておらず、息子の死亡が私の被爆と関連しているのではないかと、事実を追求するのが怖くて被爆の事実を口にすることができなかった」。パクさんが妻に告白したのは、90年代に入ってからだ。

 00年11月、パクさんは母の苦労と自分の体験、そして在朝被爆者の問題解決を要請する手紙を広島市長あてに送った。

 しかし翌年2月に送られてきた、広島市役所社会局被爆者対策部調査担当課長からの返信は、何ら誠意を感じることが出来ないものであったという。

 パクさんは、日本政府は早急に措置を取るべきだと言う。「年を重ねて貧血がひどくなったが、まだ健康だ。しかし高齢の被爆者たちは一人二人とこの世を去っており、もう身動きができない人も大勢いる。私たちにとっては一分一秒が切実だ。日本は調査だの何だのと言うだけで行動をしない。過去の歴史を直視して、私の母を含む被爆者に謝罪せよと言いたい。誠意を見せない日本政府に言いたいことは山ほどある」 

リ・ジョンヒさん

 平壌市牡丹峰区域に住むリ・ジョンヒさん(63)にとって被爆は、自身の肉体的苦痛だけではない。家族をも失ったのだ。

 1945年5月5日、広島県安佐郡祇園村で生まれたリさんは生後3カ月で被爆した。

 家族の中で原爆の被害が一番ひどかった父親は、祖国解放後「被爆者健康手帳」の発給を受けて日本で治療も受けた。ひどい頭痛と慢性的な疲労に苦しみながらも、広島で朝連、そして総連の専従活動を続けた。

 広島朝鮮第4初級学校を卒業して九州の朝鮮学校に進学したリさんは、家族とともに61年に帰国した。総連広島県本部委員長を務めていた父親は、68年に家族の後を追って帰国した。

 リさんの父母、兄たちは日本で暮らしていた時から被爆の後遺症で苦しんでいた。帰国してからも治療を受けたが、健康は回復しなかった。

 「父は85年に死亡した。被爆の後遺症だったのは明らかだ。ずっと苦しみながら亡くなった。91年には脳血症で母を失った。2年前、兄は腸ガンを患い亡くなった。食べたものが消化されず始終痛みを口にしていた」

 リさん自身も常に頭痛に悩まされている。父母や兄たちに比べれば症状は軽かったという。しかし00年以降、被爆の後遺症が著しく現われるようになった。

 「脳血症を発症して半身麻痺になった。病院で治療を受けて今は自力で歩くことはできるが、まだ右半身が痺れる。血液の循環が悪いようだ」

 リさんは、日本政府が現在取っている「援護法」に対して憤りを禁じえないという。「援護法」が定めた医療支援は、国交のない朝鮮の被爆者たちには適用されない。それなのに、日本は謝罪どころか人道的次元での対策さえ全く講じていない。

 「過去の清算もしないで、最近は『制裁』だの何だのと言っている。怒りを抑えることができない」

 被爆で家族を失い、また自身も半身麻痺を患ったリさんは現在、死がいつやって来るのかという恐怖と共に日々を暮らしている。

 「日本政府は、朝鮮に住む被爆者が全員死ねば問題が解決されると思っているのか」

ソン・キョンスクさん

 平壌市牡丹峰区域に住むソン・キョンスクさん(63)は45年2月、広島県の壬生で生まれ、その年の8月に広島市安佐南区山本町で被爆した。当時の記憶はない。

 63年に帰国したソンさんが自身が被爆者であることを知ったのは、70年代に入ってからだった。

 日本で暮らす家族が「被爆者健康手帳」を交付されたという知らせを聞き、初めて自分の健康状態と原爆との関わりを考えるようになった。

 「広島で被爆した事はわかっていたが、それまで特別に悪いところもなく大きな病気もしなかった。体は丈夫ではなかったけれど、それが被爆の影響だとは考えもしなかった」

 しかし、歳月を経て徐々に健康状態に変化が生じた。疲労がたまり、容易に回復しない日が続いた。さらに、毎日頭痛に襲われるようになった。00年代に入り病院へ行くと、血液の循環に障害があるということが判明した。

 「常に体がだるく、日常生活がままならないほどの眠気に襲われた」

 その後、通院しながら治療薬に頼る生活を余儀なくされた。

 「現在、被爆者は優先的に治療と薬が得られるようになっている。しかし、国のそうした配慮を申し訳なく思っている。私たちが多くの薬を使わなければ、それだけもっと他の人たちを助けることができるからだ。私たちが使用する薬は、日本政府が責任を持って送るべきだ」

 彼女は、在朝被爆者の援護のために実質的な対策を講じようとしない日本政府に怒りがこみ上げてくるという。

 「日本政府は私たちに、来日すれば治療援護をすると言うが、本当に被爆者を思う気持ちがあるのなら、私たちが治療を受けられる方法を考えるべきだ。日本が朝鮮を植民地にしたことが、わたしのような在朝被爆者問題発生の根源だ」

[朝鮮新報 2008.9.3]