「4.24」から60年 追憶の朴柱範先生 |
民族教育を身体を張って守り抜き、「獄死」 日本の植民地支配から解放を勝ち取って3年後の1948年。主だった出来事だけでも4月3日の済州島での南の単独選挙反対人民闘争、19日の南北連席会議(平壌)、24日の阪神教育闘争事件、朝鮮の分断と分裂の歴史が始まる8月15日の南の単独政権樹立、9月9日の朝鮮民主主義人民共和国創建。12月23日のソ連軍の朝鮮からの撤兵…。 私は今日、4.24阪神教育闘争(「4.24」)当時、朝聯兵庫県本部委員長で、「獄死」された朴柱範先生の話を中心に書きたいと思う。朴先生を抜きにしては、現在の私は存在しないといっても決して過言ではない。 □
「4.24」精神とは何か。結論を先に言えば、民族のルーツであり、魂である言葉と歴史を守り抜いたことだ。その精神は今も脈々と民族教育に受け継がれ、その正しさを証明している。 朴柱範先生は、「4.24」の真っ只中、朝聯阪神初級学校管理組合の常任理事として勤務中、閉鎖命令を拒絶して、一日も授業を休まず、運動場で青空教育を行い、自主校か分校かの市、県との交渉に携わり、学父母同胞の絶大な支持を受けて、自主学校を守り、私学法に基づいて「朝聯阪神小学校」として兵庫県の認可第1号を取得するのに奔走した。 「4.24」そのものについては、本紙でも取り上げられたので、ここでは民族教育を文字通り体を張って守り抜いた故朴柱範先生の生涯について取り上げたい。 「トダシオンダ サイサエナル(また、巡り来る4.24の日)」。今でも私の心と耳に刻まれている詩である。 祖国解放の45年8月15日、一面識もない朴先生の使いの者が私を訪ねて来て、「明日から出てきて、私の仕事を手伝ってほしい」とのことづけをしていった。翌16日から、甲南・芦屋の朴先生の事務所に出勤しはじめた。先生の指導を受けながら、朝聯結成の下準備の仕事を手伝い、阪神支部の総務部長、民青委員長、保安隊長(いずれも初代)として、元気いっぱい、希望に燃えて働くことができた。 先生は阪神の地元が手薄になるからと、本部への配置も禁じた。それから63年の歳月が流れたが、当時の写真も何枚か、色褪せて手元に残っている。その中には阪神支部結成後、宝塚の第一ホテルで、有志一同、先生の還暦祝いをした際のものもある。 7、8年前、朴先生の遺族数人が先生の故郷(本籍地=慶尚北道義城郡金谷面梧上洞)から、亡き父の足跡を訪ねるため来神された。息子さんたちはすでに亡くなり、娘さんの遺族だった。「4.24」当時、娘さんはまだ10代で、アボジのことをあまり知らなかったようだ。神戸で会って、私の知る限りのことを伝え、当時の先生の写真を何枚か渡すことができた。家族も知らない話、見たことのない亡父の姿だと大変喜んでもらえた。 □
朴先生は「4.24」のとき、朝聯兵庫県本部の委員長在職中でその責任を問われ、米軍のB級軍事裁判で、懲役(重労働)4年9カ月の判決を受け、服役中拷問を受け、意識不明のまま49年11月25日に仮釈放され、3時間後、無念のうちに生涯を閉じた。まさに「獄死」そのものであった。遺体は神戸青山斎場に安置され、1万5000人もの同胞たちが参列する人民葬として執り行われた。 先生は1885年生まれ。金憤淳氏と結婚、渡日したのは1927年。二男二女を育て、(次男は私と同年)クリスチャンとなり、同胞信者らに啓蒙運動を始めた。 当時の兵庫県武庫郡本庄村青木(現神戸市東灘区本庄町)−いわゆる朝鮮部落で、消費組合を作り、明太など朝鮮食品を販売し、夜は周辺部落の朝鮮の子たちを集め、ウリマル、ウリクルを教えていた。ちょうど私の妻も近くに住んでいたので、教えを受けた。 朴先生は解放を迎え、直ちに朝聯結成に一番乗りし、私を呼んでくれたのである。 朝聯結成(1945年10月)と同時に初代阪神支部委員長に推され、2年後に兵庫県本部委員長に就任。民族教育を守る闘いの先頭に立ち、「4.24」に一身を捧げ、「獄死」されたのだ。 先生の生涯を語るには、文字通り一口難説である。「4.24」の意義は、60年を過ぎても、いささかも衰えてはいない。ただ、変わらないのは、日本政府の民族教育に対する弾圧と差別、そのうえ、朝鮮に対する敵視政策、「万景峰92」号の一方的入港禁止、朝鮮総連つぶしに血眼になっている。 こんなことが、今の世界で許されていいのだろうか。すべての子どもたちはその民族性を誇りにして、民族の名前を大切にして、その文化を学ぶ権利を有する。このことを否認することは何人であろうと決して許されない。 対在日朝鮮人政策を核問題や拉致問題と絡めるなど言語道断である。日本当局には猛省を促したい。(徐元洙)(カメラマン、写真=筆者提供) [朝鮮新報 2008.5.9] |