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4.24教育闘争の歴史的背景〈下〉 全面的な弾圧へ

非常事態宣言

朝聯が制作した国語の教科書で勉強する児童たち(1949年、東京・荒川、出典=「アサヒグラフ」1949年12月7日号)

 1948年4月24日、兵庫県で学校閉鎖撤回を勝ち取った朝鮮人の教育擁護闘争に対して、米軍は神戸基地管内に占領以後はじめての非常事態宣言(限定付非常事態)を発令した。4月24日午後10時30分頃のことである。

 非常事態宣言によって、警察は米軍憲兵司令官の指揮下に入る。米軍は兵庫県当局者に次のように指令する。「朝聯・民青の本部、支部、分会役員の氏名、住所を調査のうえ、憲兵隊に報告せよ」「各警察署長は朝鮮人名簿を至急提出せよ」「県庁、市役所、検察庁に入りたる朝鮮人は、理由の如何を問わず逮捕せよ」「検挙者は軍事裁判に附する、日本の法律によるを要せず」。

 朝鮮人学校の地位をめぐる争点は、米軍の直接介入によって、明らかに教育の権利をめぐる問題では無くなった。在日朝鮮人を予防的に拘束し、かつ言論・出版・集会・結社の自由を軍隊・警察が実力によって専制的に抑圧する方針である。朝鮮人は逮捕状によらずに逮捕された。

軍事的抑圧と分断体制

1949年「学校閉鎖令」に反対し、スクラムを組んで学校を守る児童たち(東京・荒川、出典=「アサヒグラフ」1949年12月7日号)=写真はいずれも東京第1朝聯学校(当時)

 兵庫での非常事態宣言の動向と、大阪での鎮圧作戦とを別個のものとして考えてはならないだろう。

 大阪府庁前の大手前公園で開催された4月23日の人民大会での交渉は決裂するが、この時点で大阪は米軍による小規模非常事態に入っていた可能性が指摘されている。

 4月26日の大阪の人民大会で、武装した警察はポンプ放水と拳銃発射、警棒殴打によって、在日朝鮮人に殺人・傷害を加える。

 発砲による虐殺事件は鈴木栄二警察局長の命令であり、かつ来阪していたアイケルバーガー第八軍司令官の意向を反映していた。26日の軍警による徹底した暴力排除によって、逆に当日は1人の逮捕者も出ていない。鈴木警察局長は、以後、全ての朝鮮人の官公署への出入りを禁止する。

 非常事態宣言の動向は、中国地方にも及んでいる。中国地方一帯でも5月6日以降、朝鮮人の集会は一切禁止とする軍事的措置がとられている。

 これらの軍事的措置は、米国が南朝鮮単独選挙を強行するために、祖国分断に反対する在日朝鮮人を抑圧するためにとった措置であり、在日朝鮮人の教育擁護闘争と単独選挙反対闘争とを離間させるために実力で実行したものである。

 阪神地方の朝鮮人活動家の多くは、単独選挙実施を警察署の留置場で迎えねばならなかった。

 留置場内では、「南朝鮮の単独選挙を支持するか」という尋問が実施され、「支持する」と応じた者を釈放した。

 朴柱範氏はこれを拒否し、「獄死」した。

1949年の閉鎖危機

 西日本方面における非常事態宣言と東京での学校責任者逮捕という状況下、5月5日、朝鮮人教育対策委員会と文部大臣は覚書を交換する。

 朝鮮人教育は教育基本法と学校教育法に従い、朝鮮人学校は私立学校としての認可申請をするという内容である。

 朝聯中総は、「棍棒とピストルで問題を解決しようとする者たちに真正な民族文化の尊重は理解不可能であり、後日を期して涙をのんで」、覚書に調印した。覚書によって、朝鮮人学校の地位が非法化されなかったということは確かである。教育権利の内容面における合法性獲得は、その後の闘争如何に関わっていたのである。

 占領軍は、民族教育を根絶やしにできなかったが、非常事態宣言以後、極秘裏に朝鮮人学校の完全な不法化を目指していた。その後の弾圧の対象としてSCAP(総司令部)が選んだのは、山口県の朝鮮人学校であった。

 「山口県には無認可の朝鮮人学校はない」としながら、SCAPと第八軍は二つの選択肢を同時に追求した。事実上証拠をねつ造する方法であり、あるいは最高司令官の超法規的権限に頼る方法である。覚書の「合意を破壊する道を模索すべきである」という。

 占領軍内部では秘密裏に、1949年4月の「朝鮮人学校の新学期開講を許可せず」「SCAPは山口県知事に限定付非常事態の権限を与える」ということが進められている。

 そして国内法規としては、1949年4月4日に、団体等規正令が公布・施行される。

遡及的犯罪化と10.19学校閉鎖令

 1949年9月8日、団体等規正令に違反したとして朝聯と民青の全組織は強制解散させられる。解散理由のひとつは、朝聯と民青が阪神教育闘争で「暴力行為」をはたらいたということであった。

 軍警による権力犯罪は不問に付したまま、教育闘争に参加した朝鮮人の言論・集会の自由を犯罪化し、さらに団体等規正令適用によって遡及的に再犯罪化した。団体等規正令の公布・施行が1949年4月である点に注意する必要がある。前年の事件をもって遡及的に適用したのである。朝聯の運営する朝鮮人学校は、10月19日の学校閉鎖令で、完全に強制閉鎖に追い込まれる。

 「在日朝鮮人は加えられた非情さに再び涙した。それはとおく8.29や3.1、6.10、9.1などの多くの日に私たちの祖父母の流した涙につづくものであった。その涙のかわくいとまもないままに祖国朝鮮で戦争が起きた。在日朝鮮人は困難きわまりないたたかいにたちむかうことになる。

 私たちが朝聯解散と学校閉鎖で流した涙は、朝鮮戦争で倒れた同胞を悼む涙につながり、やがて涙つきた非情の底から、新しく立ち直り前進するみずからの力をくみあげたのである」(日本読書新聞『ドキュメント朝鮮人』)。(鄭祐宗、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程1年)(おわり)

[朝鮮新報 2008.4.23]