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4.24教育闘争の歴史的背景〈上〉 たたかいの始まり

一方的な帰国の打ち切り

 日本の植民地支配により故郷を追われた朝鮮人は、8.15解放後、あらゆる手段をつくして帰国を急いだ。朝鮮人の家族は離散を余儀なくされていた。用意された「輸送船」を利用する場合もあるが、多くの者は自ら機帆船を準備して帰国した。

 しかしSCAP(総司令部)は、在日朝鮮人の帰国は1946年12月15日をもって「完了」したとし、「引揚を拒否して本邦に留まることを選んだ朝鮮人」は、日本の法令に服さなければならないと指令する。朝聯は「帰国を拒否するのではなくて、不可能だからである」と反対したが、1947年の外国人登録令実施によって、朝鮮人の日本在留は不本意にも一方的に決められた。朝鮮半島と日本間の移動は、封鎖される。

 解放後の朝鮮人は、奪われている言葉と文字、歴史を取り返すために、国語の学習に全力を尽くした。朝鮮人が住むところには必ず「国語講習所」が誕生したと言っていいだろう。それは朝鮮人自身の生活をも取り返すたたかいの始まりであった。

 教育事業は、朝鮮人が帰国を当分見合わせなければならない状況下で、半恒久的な教育事業として発展する。同胞の困難な生活の中から零細な資金を捻出して、教育事業は徐々に軌道に乗り始めていた。

在日朝鮮人の二重負担

 8.15解放後も在日朝鮮人の生活はとても困難であった。朝鮮人の困難な生活は、収入の極度な不安定さだけではなかった。支出面でも一般的に日本人以上に別な重い負担を賦課されている。

 朝聯中総経済局社会部が発表した「失業対策大綱」(1947年)の説明によると、「日本人と同様な日本政府および公共団体の課税を収める反面、解放−独立民族としての基礎的建設(民族文化復興、教育施設の自主的管理、生活面の指導、戸籍行政事業等)を自治的に遂行するため膨大な費用を負担する」と、在日朝鮮人が解放後2年間に二重負担を強いられてきたと指摘。そしてこの二重負担は「日本に民主主義政府が樹立されず、終戦後保守反動勢力が政権を握って、朝鮮民族を正しく理解しないから」であり、「いままでの日本政府はこれら民族政策、とくに日本帝国主義から解放された朝鮮民族にたいする政策は過去のように弾圧一本やり」で通そうとしていると批判した。

統制と1.24通達

 この二重負担の解決と、教育の自主権確保をめぐっての葛藤についてはいかに推移したか。

 朝聯の文教方針は、日本文部省に対する抵抗が鋭く、朝鮮人独自の教育方針を取っている。文部省は内務省とならんで、朝鮮人の皇民化教育と侵略戦争への動員を担っていたのである。

 1947年3月の教育基本法施行は、朝鮮人学校に対する統制の危機を進行させた。学校認可問題ついて、1947年11月の朝聯中総の教育委員会では「在日朝鮮人教育の根本方針をいかに立てるか」を討議している。

 そこでは教育基本法の拘束を受け文部省の認可を受けるか、それとも学校資材や児童給食等の配給面にあっての差別的取扱を覚悟のうえで、日本政府の拘束を脱して自主教育を確保するかが議論されているが、同委員会では差し当たり後者の方針で進むことを決定し、「在留同胞の経済力を検討し教育に対する関心を喚起させなければならない」とした。

 文部省は、朝鮮人児童生徒の国公立・私立学校への就学義務と、朝鮮人学校に対する統制とを都道府県知事あてに指令する。1948年1月24日、文部省学校教育局長は都道府県知事あてに「朝鮮人設立学校の取扱いについて」を発し、「朝鮮人子弟であっても、学令に該当するものは、日本人同様、市町村立または私立の小学校または中学校に就学させなければならない」「私立の小学校または中学校の設置は学校教育法の定めるところによって都道府県監督庁(知事)の認可を受けなければならない」と通牒したのである。

1948年4月教育闘争

 この指令が通達されると、3月初めから4月半ばにかけて山口県、東京都、岡山県、兵庫県、大阪府などは認可によらない朝鮮人学校を閉鎖し、日本の学校を借用していた朝鮮人学校施設を明け渡すことを命令した。

 そのほか、福井県、茨城県、神奈川県、島根県でも同様の問題が発生している。4月の新学期までに立ち退かせることを見込んでいたのである。

 山口県では3月31日、県庁前で人民大会を開催し、1万人の同胞が24時間徹夜闘争を展開し、「学校実情の再調査」という事実上の学校閉鎖令の一時取消を勝ち取った。その後、4月20日には朝聯学院に対する調査により、閉鎖令解除と岩国支部朝聯学院の建築資材配給などが行われている。

 またこの間、宮城県では朝聯と県知事とが会談し、朝鮮人教育の自主教育を確保し、かつ朝鮮人学校費用を全的に援助するという言明を獲得している。

 学校閉鎖令に反対する闘争は、教育の自主権確保を基礎としつつ、二重負担の解決をも見据えた闘争であり、危機を転じて、質的な意味でも合法性の獲得を見せつつあった。

 この飛躍の可能性を押しつぶすために、大阪・兵庫では占領軍・日本警察の共同による血の鎮圧作戦が展開されるのである。(鄭祐宗、大阪大学大学院文学研究科博士後期課程1年)(続く)

[朝鮮新報 2008.4.21]