〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-7-〉 「天下晴れての人殺し」 |
4、なぜ、民族犯罪と言うか ク民衆が朝鮮人に的を絞って虐殺
私が関東大震災時の朝鮮人虐殺を民族犯罪と呼ぶ所以は、日本民衆が特定したある一つの民族、この場合は、朝鮮民族に的を絞って大虐殺を敢行したからである。 明治維新以降の近代日本は、幾多の対外侵略戦争で他民族を殺してきた歴史を持っているが、そのすべての殺人行為は、日本軍隊がやったことである。 しかし、関東大震災時の虐殺参加者の大部分は日本人民衆である。自警団と称する日本刀、竹槍、鳶口などを手にした民衆武装集団の内容は、在郷軍人会、消防団、青年団を中核として、その構成人員は多様で、じつにさまざまな人々、郡守、町内の幹部、地域の小ボスや八百屋の主人、米屋、魚屋、金物屋のおやじさん、下駄屋のおばあちゃん、すし屋の小僧などの一般庶民が、手に手に刃物や鉄棒、棍棒などの得物を持って、朝鮮人を追い回し、捕まえては大喚声を上げて、突き、刺し、叩くなどして殺しているのである。 民族犯罪と呼ぶのは不当であろうか。 ■ ケ自警団の成立 自警団の成立を警視庁は次のように見ている。 「一時警察力の充全を欠きたること其一なり。鮮人来襲の流言伝播せること其二なり」(警視庁編「大正大震火災誌」) 「恐怖すべき大変災は、吾人に隣保団結の必要を痛感せしめたり」(「東京震災録」中輯)というか、要するに町会のあったところはもちろん、ないところにも町会を作り、自警団を作った。 東京区部は、当時15区あるが、町会ごとの自警団の数を合わせると、なんと1660余という数である。その前の9月16日の調査では、区部562、郡部583、区部では牛込区の110を最高として芝区の109、四谷区の74がこれに次ぎ、神田区の3、浅草区の2はその最も少なるものであった。その差は、焼失区域、焼残区域の相違である。日本橋、深川の両区では、自警団は成立しなかった。 東京以外では、神奈川603、埼玉300、千葉366、茨城336、群馬469、栃木16の多きに達し、あたかも民兵守備の戒厳地域と化したがごときであったと言われる。 このように全東京、否、全関東、蜘蛛の巣以上の警戒網を張り巡らして、アリ一匹身を容れる所なき状態にあるところを、言語上挙動、その他の差異歴然たる朝鮮人が、どうして財狼、餓虎の無数の狡眼から免れることができようか。 自警団の性質と行動について「A、鮮人と認めたるものは、その犯行の有無善悪を問はず、直にこれを迫害して非常なる危険に陥らしめたこと。B、独り鮮人のみにあらず仮令同胞なりとも、言語の不明瞭なるもの、群衆の気勢に恐れて応答に逡巡せるもの、理由なき暴行に激怒せるもの等に対しては、すなわち荷虐の処置に出で、或いはこれを殺傷せるもの亦尠からざるのみならず、一般人の通行は自由を失ひ、危険甚だしく、自警団の行動は却って秩序の破壊となれる事」(警視庁編「大正大震火災誌」)と言うのは、取り締まる側にあるものとしては、なかなかの表現である。そもそも、自警団は、自然発生的に生まれたのではない。例外がないわけではないが、ほとんどは、警察の指導下に作られた民間武装組織である。 この時期の東京郡部は、現在の新宿、中野、杉並、練馬、豊島、板橋、北、足立、荒川、葛飾、江戸川、品川、世田谷、目黒、渋谷などの16郡と多摩地方全域である。 その自警団の動きは、警鐘を乱打「鮮人を捜索し、闘争、殺傷所々に行はれ、騒擾の巷と化す」(亀戸署管内)。また、千住署管内では、西新井村興野の殺傷事件。「南綾瀬村柳原の鮮人住宅を襲ひて7人を殺害し」とあって、東京各処、正に「さっきの天に漲るを見」(世田谷署管内)せている。 その姿も「異様の壮士、凶器、棍棒を携へ」て、「裸体に赤帯を締め、帯刀して町内に示威行列をなせる15名の壮漢ある」(南千住署日暮里分署)となれば、これはもう和冦の現代版である。 ■ 朝鮮人殺しの官許は、人々をして過ち中世無法の地に押し戻したのである。 「旦那、朝鮮人は何うですい。俺ぁ今日までに六人やりました」 「そいつは凄いな」 「何てっても身が護れねぇ。天下晴れての人殺しだから、豪気なものでさぁ」(「横浜市震災史」) これが、当時の日常会話である。旦那と呼ばれた人物は、新聞記者であったと思う。 この会話に、大震災当時の雰囲気が見事に凝縮されている。 しかるに警察は、自警団の実態を逆に描き、「朝鮮人も保護しすぎる」と民衆に抗議されたということまで言う。もしそのような事実があったとしても、「マッチ・ポンプ」的な内務省、警視庁の謀略的体質こそ問題にすべきであろう。(琴秉洞、朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2008.9.3] |