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〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-4-〉 朝鮮人暴動ねつ造、戒厳令の理由づけ

 この2人(警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃)の証言は実に重要である。

 つまり、数十万の大群衆の極度の混乱状態を目撃した治安当局者は、「不祥の事変を生ずるに至るべき」に恐怖感を持ち、「尋常一様の警備を持って依って生じる不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難」を知り、軍隊を出動させ、戒厳令に依って、群衆の「不祥の事変」を押さえようとしたのである。

雑誌「白警」の表紙(1923年11月21日発行)

 この時の赤池の切迫した危機意識を示す例を今少しみてみたい。

 彼は地震直後、群衆が食糧を求めて明治屋に殺到したのを見て、「食糧品の販売店に対し暫時之を警察に提供せしめて掠奪暴動の発生を防ぐべきを命令した。而して熟々考ふるに、刻下の急務中の急務は一に食糧の供給に在り、之を善くすれば無事なるべきも若し之を誤れば暴動を惹起すべし。古来各国の暴動は概ね食料騒動即飢餓より其端を発して居る、飢餓に敵する何物もない」と一挙に危機感を高めている。

 さらに彼は、自己の危機感を、いっそうたかめる事態を体感する。

 「余は憂慮の余り、夜宮城前を歩み見れば避難の人陸続として来り、流石の広き馬場先の凱旋道路も全く人を以て充満して居た。而して諸方にて『水は有りませんか』『水は有りませんか』と質問を懸けられた、…」「余は眼前此光景に接して、此際は人心を安定せしむるが絶対の急務なりと感じた(下線部「原文」の傍点)。…、当時余の最も痛心措く能はざりしは飢餓より生ずる悲鳴であり、失望より生ずる直接行動であった。此非常特別の事実に際しては尋常の縄墨を以て事を律することは出来ない、今や宮城前に集まれるもの無慮三十万人である、又上野、芝、靖国神社境内に集まれるも五万乃至十万人である。之等の人々にして食物を口にせず飢を叫ぶ時は、此大錯乱、大混乱の時に於て何事が勃発するか予知すべきで無い」

 東京の治安担当者たる赤池の危機意識の深刻さは、反射的と云えるもので、先に見たように直ちに戒厳令発布という発想になる。

 しかし、問題は戒厳令を布く理由である。

 戒厳令第一条には「戒厳令は戦時若しくは事変に際し兵備を以て全国若しくは一地方を警戒する法とす」とある。つまり、戒厳令を布くには戦時か、もしくは内乱(事変)の、いずれかの条件が必要なのである。ところが、今の混乱は地震と火災によるものであって、戦争でもなければ内乱でもない。戒厳令を要請しようにも、その理由がない。そこで考え出されたのが「朝鮮人暴動」である。ほかでもない。治安の最高責任者内務大臣水野錬太郎その人がこのことを証言している。

 「翌朝(九月二日)になると、人心恟々たる裡に、どこからともあらぬ朝鮮人騒ぎが起こった。〜そんな風ではどう対処すべきか、場合が場合故、種々考へても見たが、結局戒厳令を施行するの外はあるまいという事に決した」(『帝都復興秘録』、みすず書房『関東大震災と朝鮮人』所収)と云うのだ。戒厳令は「朝鮮人暴動」に対処するために布いたのだということを、しかも治安の最高責任者である内務大臣が、これほど明確に述べた文献は、今までのところ他に見当たらない。

 赤池警視総監が戒厳令の発布を建言したのは、9月1日の「午後2時頃」である。とすれば、地震が起こって2時間ほどしか経っていないので、朝鮮人騒ぎは露ほどにも起こっていない時である。

 朝鮮人問題が全く起こっていない時に赤池や後藤は戒厳令発布を要請した。罹災し、混乱した百万近い大群衆による「不祥の事変」を押さえるには戒厳令しかないと考えたからである。

 ところが実際には、戒厳令を布いた理由を朝鮮人暴動に対処するためだったと水野内相は確言している。ここまで明らかになればもう疑問の余地はない。

 つまり、水野、後藤、赤池ら治安三人組は、戒厳令発布要請の理由づけに苦しんだ挙句、朝鮮人暴動を造りあげて戒厳令発布の法的裏付けを整えたのである。この三人の証言、殊に水野のそれは、担当大臣だけに決定的と言える重みがある。

 このことと同時に、「朝鮮人暴動」流言の狙いは今一つある。それは日本人民の不満と怒りを朝鮮人に転嫁させるためであった。この目論見は見事に当たったということである。

 日本人の不満、持って行き場のない憤懣を朝鮮人にぶっつけさせる政府内務当局のやり方は、戒厳令要請の法的裏付けとなり、併せて支配層に向けられる人民の不満をかわしたという点で一石二鳥の措置だったが、水野にしろ赤池にしろ3.1独立運動時の朝鮮人民への血の弾圧者だったことを考えると、朝鮮人への恐怖とその報復心の発露ということで一石三鳥の意味があったようだ。

 彼らの脳裡には、5年前の米騒動の際、凄まじいばかりの爆発力をみせた日本人民の反権力闘争と、4年前の3.1運動の折りにみせた朝鮮人民の燃えたぎる愛国的情熱が、恐怖をこめて想い出されたに違いない。(琴秉洞、朝・日関係史研究者)

[朝鮮新報 2008.5.30]