〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-3-〉 国家の核心機関が虐殺に関与 |
3、なぜ、国家犯罪というか(とくに戒厳令問題) 大震時の朝鮮人虐殺問題をなぜ国家犯罪と言うのかの理由は、@国家権力の中枢である内務省が、戒厳令発布を朝鮮人暴動流言と結びつけたこと、A朝鮮人暴動流言を政府、この場合は内務官僚・警察をして伝播流布させたこと、B朝鮮人虐殺を軍隊が先導して行ったから−である。つまりは、日本国家の核心機関が虐殺事件に全的に関わっていたということである。以下、順を追って説明を加えたい。 @戒厳令問題 ク地震被害の状況と被災者の状態
1923年(大正12年)9月1日正午2分前、関東地方に突如として大地震がおこった。稀有の大激震に多くの家は倒壊し、ちょうど昼食準備の火を使っていた事情と重なって各所での火事の発生となり、またたく間に東京・横浜をはじめとする繁華街や家屋密集地は炎に包まれたが、天を焦がす大火は夜を徹して燃え広がり、18時間、または20数時間も燃え続けた。死者は10万(14万人ともいう)を超え、負傷者はこれに数倍した。経済的損害は当時の金で50億円とも100億円(今の金に直せば数兆円にはなろう)とも言われたが、実に史上まれにみる大災害であった。 したがって、罹災民衆の苦労は想像を絶するものがある。「当時に於いては百万に近き罹災者あり、而も其罹災者は家財を失ひ、父母妻子離散し、寝る所なく、食ふに糧なく、着るの衣なく、実に惨憺たる状態にあり」(雑誌「自警」大正12年11月号)と、時の内務大臣水野錬太郎は書いている。 このような罹災者は日比谷公園や「宮城」前などに50万人、上野公園、芝公園、靖国神社境内などに10万人くらい集まってきたと言う。家は焼け、肉親は離ればなれになり、命からがら逃げのびては来たものの、余震はつづき、大火は黒煙を噴き上げて迫ってくる、という状況の中で、群衆は食物を求め、水を求め、親は子を、子は親を、そして兄弟、姉妹がお互いに捜しあって、これらの広場、公園に集まっても、収拾のつかない大混乱におちいっていたのである。 ケ治安当局の対応と戒厳令発布 このような民衆の大集団と、その極度の混乱をみて、治安当局者はどう反応し、どのような対策をたてたのであろうか。時の内務大臣水野錬太郎、内務省警保局長後藤文夫、警視総監赤池濃の3人が真っ先にやったことは、罹災民救済ではなく、宮中に行って天皇(大正天皇は日光に避暑中)や皇太子(昭和天皇)の御機嫌奉伺をすることであった。その宮中参内の途中でこの3人の当局者は、群衆の大混乱をみて、大群衆の不満の矛先が政府に向けられることを最も恐れた。3人は一貫して内務畑を歩き、5年前の米騒動時には、共に治安当局者として民衆弾圧に努めているが、同時に民衆暴動の恐ろしさを最も実感していた男たちである。 ■ その翌年の朝鮮での3.1運動の時も水野は直後の斎藤実総督の下で政務総監として、朝鮮人の民族運動の巨大なうねりを肌で知っていたし、赤池は総督府警務局長として、朝鮮人民の3.1運動を直接先頭に立って弾圧している。つまり、日本人群衆・朝鮮人民の暴動や独立運動の巨大な力を誰よりも知りうる立場にあったのである。このような3人が、文字どおり驚天動地の最中に、天皇の居処、宮中で顔を合わせたのである。何を議したか。 この3人は宮中で顔を合わせ、一つはこの大群衆の不満の爆発を未然に押え込み、二つ目は、この不満の吐け口を効果的に他に向けさせることを申し合わせたのである。今考えても実に不思議なのは、彼ら自身がこのことを自ら証言しているのである。それを当の御本人に語ってもらおう。 警保局長後藤文夫は「9月1日午後震災の被害各方面に惨憺たる状況を呈しているを見た余は、全都を通じて其災禍の頗る大なるを想像せざるを得なかったのであって、尋常一様の警備を持って依って生じる人心の不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難なるは当局者の看取した所であって、戒厳令を布くの非常手段を執らざる可からざるとの決意は地震の直後当局者の間に生じたのであった」と述べている(前掲書)。警視総監赤池濃もまた「四辺の光景を見て余は千緒万端、此災害は至大、至悪、或いは不祥の事変を生ずるに至るべきかと憂へた〜此間復た参内状勢を奏上せんとせるに、宮城内に於て内務大臣に会せる故、余は直に後藤警保局長と共に引返したが、〜余は帝都を挙げて一大混乱裡に陥らん事を恐れ、此際は警察のみならず、国家の全力を挙げて治安を維持し、応急の処理を為さざるべからざるを思ひ、一面、衛戍総督に出兵を要求すると同時に、後藤警保局長に切言して内務大臣に戒厳令の発布を建言した。それは多分、午後二時頃であったと思う」(前掲書)と述べている。(琴秉洞、朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2008.4.30] |