4.24体験者、日弁連に人権救済申立 「民族教育弾圧はジェノサイド」 |
今も続く差別政策 1948年の4.24教育闘争当時とその後、日本当局による朝鮮人学校に対する弾圧により、人権を侵害された被害者と肉親らが24日、日本弁護士連合会人権擁護委員会を訪ね、人権救済申立書を提出した。 申立人は、鄭求一氏(85)、金昌孝氏(66)、梁相鎮氏(79)をはじめとする3人。
申立人を代表して、鄭求一氏と金昌孝氏、梁相鎮氏の孫である李智香氏(25)が申立書を手渡した。 申立書は祖国解放後、在日朝鮮人への初めての抑圧政策である1948年1月24日の官学5号「朝鮮人学校の取扱について」と1949年10月13日の「朝鮮人学校に対する措置について」の「通達」と弾圧、朝鮮学校の閉鎖により、在日朝鮮児童の約4万人が民族教育機関から日本学校へ集団的、強制的に移動させられたのは、「ジェノサイド条約」第2条に違反する重大な人権侵害であり、その責任を明らかにすることを求めた。 また、4.24教育闘争時、金太一少年が警察の銃撃により犠牲となったのをはじめ、約3000人の在日朝鮮人が無差別に検挙されたことに対する日本政府の責任を明らかにするとともに、遺族と関係者に謝罪することを要求した。 そのうえで、1965年12月27日の「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱について」は前述の2つの「通達」を踏襲しており、現在の在日朝鮮人の民族学校に対する日本政府の対応は「ジェノサイド」が続いている状況だと指摘した。 申立書を手渡した代表らは記者会見に臨んだ。 また、東京の総評会館で行われた1948年民族教育を守るたたかい、証言を聞く会にも参加し、証言した。 80%の児童が強制的に
集いでは、日弁連人権擁護委員会に提出した人権救済申立書について朝鮮人強制連行真相調査団朝鮮人側中央本部の洪祥進事務局長が報告した。 洪事務局長は、今回の申立の重要な内容は「ジェノサイド」にあると指摘。「ジェノサイド」という言葉がナチスドイツによるユダヤ人虐殺について使われるため、大量虐殺という認識があるが、他民族に対する民族性の抹殺もこれに該当すると強調した。 1948年12月9日、国連第3回総会決議で採択され、1951年1月12日に発効した「ジェノサイド条約」(集団殺害罪の防止および処罰に関する条約)第2条は、「集団殺害とは国民的、人種的、民族的または宗教的集団を全部または一部を破壊する意図をもって行われた次の行為のいずれをも意味する」とし、(a)集団構成員を殺すこと、(b)集団構成員に対して重大な肉体的または精神的な危害を加えること、(c)全部または一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すこと、(d)集団内における出生を防止することを意図する措置を課すこと、(e)集団の児童を他の集団に強制的に移すことなどをその行為として規定している。 洪事務局長は、4.24教育闘争に対する弾圧は、このうちの(a)と(b)、とりわけ(e)に該当すると述べながら、学校「閉鎖令」をはじめとする日本当局の弾圧により、当時の在日朝鮮人児童数の約80%にのぼる4万1261人が日本学校に収容されたと強調した。 そのうえで、教育闘争時の日本当局の弾圧政策は、現在の朝鮮学校の処遇にも引き継がれており歴史的かつ根本的に解決しなければならないと語った。 民族性取り戻すため 当時、東京朝聯第3初等学園で教鞭をとっていた鄭求一氏は、「奪われた民族性を取り戻そうと、子どもたちに朝鮮の文字と言葉を教えようという父母たちの素朴な気持ちから始まったのが民族教育。当時は倉庫や工場で民族教育を行っていた」と述べた。 鄭氏は、第3初等学園が「学校閉鎖令」により1949年12月から一時的に都立学校となった当時を振り返りながら、「民族科目を課外科目にしたり、朝鮮人教員は公務員になれないので給料を少ししかくれなかったりと、いいことなど一つもなかった。そんな中でも私たちはたたかって民族教育を守り抜いた」と語った。 金昌孝氏は、「大阪では、同胞が多く住んでいる地域のほとんどの子どもが朝鮮学校に通っていた。私も朝聯東成初等学園に通っていたが、学校が閉鎖されたので行けなくなった。当時はまだ幼かったので具体的には知らないが、きっと日本学校に行かない運動があったようだ。それで私も友達と一緒にしばらくの間、朝聯支部事務所の2階で勉強していた記憶がある」と語った。 また、「朝鮮学校に通えなかったため、私は『日本人になる教育』、言い換えれば朝鮮人として思想感情的、情緒的にゆがんだ精神構造を持たされる教育を受けることになった」と述べながら、「朝・日間の問題が解決されるとき、金銭的な賠償は決心さえすればすぐにできる。しかし、私たちの世代の心の問題は簡単には解決できない。日本当局は私たちの心の問題まで考えなければならない」と強調した。 朝青東京・豊島支部総務部長を務める李智香氏は、「ハラボジから4.24教育闘争当時の話をたくさん聞いた。ハラボジは話を聞かせてくれるたびに、自分たちの力でようやく建てた学校を奪われるのが悔しかった、絶対に許せなかったと言う。私は幼稚班から中級部まで4.24の魂が息づいている尼崎朝鮮初中級学校で学んだ。4.24教育闘争は過去の話ではなく、民族教育が置かれた現況につながっているもので、絶対に忘れてはならない」と力強く語った。(李松鶴記者) [朝鮮新報 2008.4.28] |