〈関東大震災下の朝鮮人虐殺問題-1-〉 恐るべき国家犯罪、民族犯罪 |
はじめに 上 日本の近代史と現代史の分岐をなすのは、1923年9月1日の関東大震災であるとは定説化された見方である。私は、侵略と殺戮にまみれた日本現代史は関東大震災時の朝鮮人虐殺に始まると考えている。 関東大震災は日本の歴史上の大地震に較べても被害の甚大さは特出しているので、体験記や目撃記、伝聞記録の多さは他の地震記録の追随を許さないものがある。しかしながら、関東大震災は被害の大きさだけが特出しているだけでなく、人為的な殺人、少数の日本人社会主義者や中国人(朝鮮人と間違われ)に対する虐殺と、殊に朝鮮人に対する大虐殺という事実を含んでいるということで、それまでの大地震災害と峻別されるものである。この時の朝鮮人虐殺は一般日本人の対朝鮮認識だけでなく、対アジア民族認識に決定的と云える影響を与え、アジア侵略戦争時の大量虐殺につながってゆく。そして、本年は関東大震災から85年を経た年であるのだが、わが民族、そして在日朝鮮同胞にとって悲痛を極めたこの虐殺事件は現在も未解決の事件として残されたままである。関東大震災時下の朝鮮人虐殺事件の本質と問題点は何であるのか。本稿で私はこの問題の本質的解明と、問題点を具体的に考えてみたいと思っている。 ■ 1、朝鮮人虐殺事件の本質は何であるか。
それは、@に国家犯罪であり、Aに民族犯罪である。 @なぜ、国家犯罪なのか。それは、大虐殺の引き金となった戒厳令を、政府治安担当の指導的人物(内務大臣、警保局長、警視総監)が起案、執行し、国家機関、権力機関、即ち、軍隊、警察が虐殺を先導したからだ。関東大震災下の朝鮮人虐殺を国家犯罪とする所以である。 Aなぜ、民族犯罪なのか。この時殺された朝鮮人の数は6000人以上になるが、いずれにせよ、虐殺された朝鮮人の圧倒的多数は自警団員、青年団またはその他の日本民衆によって殺されたからである。つまり、日本民衆が他の一民族を特定選択して、集中的に虐殺を敢行したのである。民族犯罪とする所以である。以下、この国家権力による犯罪、民族犯罪について今少し、詳しくその内容について立ち入って検討し、併せて、この虐殺事件での問題点は何かということと、責任問題、それにこの虐殺事件を解明することの今日的意義などについて考えてみることにしたい。 ■ 2、日本支配層の危機対処法−明暦の大火 私は、関東大震災時の虐殺事件の国家犯罪または民族犯罪を挙証する前に、言わば日本支配層の危機対処の歴史的例証を一つ呈示してみたく思う。それは江戸時代の明暦の大火時のことである。 @明暦の大火と幕府の対応
非常時、または危機に際しての支配層の対処の仕方は、おおむね軌を一にしていると言ってよい。最初は権力中枢部の安泰を図り、次に支配機構を整備し、それから困難の極にある民衆救護(食糧、その他)の手段を講じ、そして、できえれば災禍の原因を他に求める、ということである。これは大地震や大火事などの自然災害時においても同様の構図上にあるように思う。 ここでは関東大震災時における日本支配層の対処法を念頭において言っている訳だが、実は天皇制権力だけが、そのような、いわば危機時の対処法を執っていたのではなく、すでに江戸期に徳川幕府権力は後の天皇制権力がそっくり真似たと言っていいほどの対応を「危機」時に執っていたのである。 江戸期、それも明暦の大火時における幕府権力層の思考様式と対処法を要約的にみつつ、あたかも、それらを参照したかのような関東大震災時に執った日本支配層の思考様式と対処法を対置させて権力が「危機」に際していかなる行動を執るものかをみてみたい。 そうすれば、次に起るかも知れぬ自然災害時に、日本支配層が執るであろう「危機対処法」も全く予測のつかないことではないように思う。 A大火の規模と民衆の惨状 明暦3(1657)年正月18、19日の火事は江戸期を通じて一番の大火として知られている。本郷本妙寺より発した火は折からの強風に煽られて二日間で江戸の大半を焼きつくしたのである。当時の記録をみるに、江戸の至る所にまさに地獄絵が現出していた。 その火により江戸城の天主閣(五重)や二の丸、三の丸をはじめ「諸大名の邸宅、その大なるもの五百軒、士庶の屋舎は数ふるにいとなまし。神社、仏閣三百余所、倉廩(庫)九千あまり、橋梁六十、市井八百町(あるいは五百余町―原註)、道程を縦横に計れば二十二里八丁、ことごとく焦原となった」とある(「徳川実記」。以下、資料名のない引用は「徳川実記」による)。死者はなんと10万8000人(「本所回向)記」)を算した。後の関東大震災時の10余万人、東京大空襲時の10万余人の死者数にほぼ匹敵するが、居住人口比からみて明暦の大火時の惨害の大きさが想像できよう。(琴秉洞、近代朝・日関係史研究者) [朝鮮新報 2008.4.2] |