〈インタビュー〉 布施辰治と朝鮮 孫の大石進・日本評論社会長に聞くB |
弁護士としての「成功」と受難 −関東大震災が起こったのはそんなことがあった直後だったのですね。 大石 朝鮮の農村を見てきて、農村で食べられなくて日本に来ている人たちが殺されているというのを見て、それはもうたまらなくなったのでしょうね。 −土地調査事業などで少なくない農家が土地を失い、没落していった、そんな様をかいま見てきたのでしょうか。 大石 実は日本でも、東北地方がその典型なんですが、近代化の過程で、入会地など、部落民が共有していたものが国有林にされてしまったり、地域の有力者名で登記したためにその人にとられてしまったりしている。ずっと利用権だけあって所有権がなかった土地というものに、フランス民法的な所有権概念をそのまま適用していくと、そういうことが必ず起きてくるんですね。同じようなことが朝鮮でも行われた。しかし、日本の場合は、悪意で政策が立てられたわけではないと思うのですけど、朝鮮の場合は、はじめから農民から耕作権を奪う目的があったのではないかと思うんです。辰治は農家の出ですからことさら感じたのでしょうね。 −関東大震災の時、朝鮮人のみならず、大杉栄とかも虐殺されています。そんな状況下で震災直後の混乱状態の中、布施先生が東京中を駆け回って救援活動を行われたということは相当な覚悟があってのことだったのでしょうね。 大石 それはもう死んでもしようがないという覚悟はあったと思いますね。彼自身そう語っています。むしろそこで死ねば、日本人の心ある人間として朝鮮民族に対して少しは言い訳ができるぐらいの思いがあったのかもしれません。そういう発想って、良いかどうかわかりませんが、古い日本人だからあったでしょうね。 −布施先生は朝鮮人関連をはじめ社会的な大事件に関わってこられ、経済的にもご家族の方ともども苦労が多かったのではないですか? 大石 このことは皆、あまり言おうとしないところなのですが、実は彼は弱い人のために弁護するという「自己革命の告白」をする前に近代的ブルジョア弁護士として大成功しているのです。ですから相当収入があったのです。 −ということは3.1運動の前、1910年代のことですね。 大石 そうです。彼はとても体力があり、人一倍仕事をすることができました。それから事務処理能力が非常に高いですね。例えば宮三面の農民争議なんかでもアンケート用紙のようなものに書いてもらってそれを総合して事態をぱっとつかむとか、関東大震災の時の被害者の調査なんかでも布施事務所の用紙に質問項目がつくってあって、それを自由法曹団の弁護士たちが手分けして埋めていくと、事態がわかるようになっているんですね。また刑事弁護士としてはピカイチなんですよ。民事事件でも自分がやりたくないと思っても奥さんが結構「頑張り屋」ですから、例えば風俗営業の人の建物の地主との争いといった案件もやったりして収入がすごくあったんですよ。あの頃の東京の建物っていうのはほとんど借地に建っていた。 ですから1909年から10年にかけて30歳の頃に四谷に建てた事務所なんかは、東京で一、二といわれる立派な建物ですよ。 弁護士になってからもはじめはうまくいかなかったんですよ、お金の面では。でも結婚して、奥方にコントロールされて、悪友との関係を切られたりして成功したんです。飲み歩きなんかしないようになって。 弱い立場の人の救済のための事件に関わると弁護料は入らない。朝鮮に行くときも、第一回目は東亜日報からいくらか費用が出たかもしれませんが、それ以後は基本的に自腹ですよね。労働事件や朝鮮人を助ける事件に多く関わるのですが、それを支えるものとして普通の事件をこなして稼いでいたのですね。彼はよく「弱い立場の人を助けるのに金をもらってはならない。金は他で稼ぐべきだ」ということを言っていたようで、これはよく誤解もされ、仲間の弁護士からも受け入れられないことも多かったようです。そりゃあ私だって、稼げない人間は社会的事件に手を染める資格がない、なんていわれたら、反発しますよ(笑)。でも彼は、いわゆる「いそ弁」の給与を含めて、それだけ収入を確保していたのでしょうね。 刑事事件では市ヶ谷監獄に囚われていた人の、ざっと計算したところ、7%くらいは関わっていたようです。それは相当な数ですよ。 −それが一転、刑事犯罪人とされ、弁護士資格も奪われるわけですね。 大石 そう。30年代のことですが、布施は弁護士資格を剥奪され、投獄生活をおくるようになり、次第に経済的にも厳しくなっていきます。何回か引越をしますが、そのたびに家が小さくなっていき、生活も苦しくなっていくのです。祖母−布施の妻−は旅館の娘であったため、高田馬場に引っ越したときには、離れで朝鮮人専門の下宿屋を営んでいました。早稲田大学の近くでしたから、そこの学生さんでしょうね。なお、これは余談ですが、獄中生活を終えたとき(1940年)、布施は弁護士資格を剥奪されていましたが、資格がないにもかかわらず、2カ所から顧問を頼まれ顧問料をもらっていました。 高田馬場から、まだ麦畑のなかの荻窪、そして神奈川の小坪という漁村へと居を移していくことになるのです。つまり、住む住宅の価格差で生計を立てていたのです。 私はその小坪時代、一緒に暮らしたわけです。(聞き手=金東鶴・在日本朝鮮人人権協会事務局長、「人権と生活」07年冬号) [朝鮮新報 2008.3.10] |