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〈インタビュー〉 布施辰治と朝鮮 孫の大石進・日本評論社会長に聞くA

「一緒に闘う」「痛みを分かつ」

−日本が朝鮮を植民地支配する時代状況の中で布施辰治先生がこれに真っ向から異議を唱え、朝鮮人の独立運動にも単に理解のみならず、行動をもって、支持されたことは希有なことだったと言えるかと思います。布施先生がなぜ、弾圧を恐れずこの道に突き進まれたのか。

 大石 私も直接辰治から聞いてはいません。言われていることを整理すると、こんなことではないかと思います。

 小学校を出て漢学塾のようなところに行き、漢籍を学んだと思うのです。朱子学なんか典型的ですが、そういう学問は朝鮮から来ているわけです。そういった学問を学ぶ過程で漠然としたものかもしれないけれど朝鮮や中国への敬意を持っていたのではないかと思います。江戸時代の朝鮮通信使への歓迎ぶりなんかもすごいじゃないですか。それを明治以降、手のひらを返すような対応をとったのですからね。そういったことに耐えられない思いをしたのではないかと。

 この時期に布施は、甲午農民戦争の話を聴かされます。布施は1880年生まれですね。彼が14、15歳の頃かな。日本では東学党の乱と言われていますが、甲午農民戦争に行ってきた兵隊が村にいて、その人が自慢げに朝鮮の農民たちを追いつめ追いつめ殺りくしていく話をする。周りの人が嬉々としてそれを聞いているさまに耐え難い思いをした。日清戦争の話でなく、甲午農民戦争の話を記憶の底にとどめたところが、出発点かもしれません。

 現存する日本最古の教会建築というのが石巻にありますが、布施の育った石巻というのは港町で、文化が入ってくるのが早いんですよ。その教会が自由民権運動の拠点になっているんですね。日本の自由民権運動というのは反政府運動の側面が強いけれども思想的な面もあって、辰治はなにがしかの影響を受けていると思うのです。ただし、自由民権の壮士たちの目に異民族の人権という概念はなかったと思うのですよ。彼らは閔妃虐殺のときに軍隊の手先となるような精神状態を持っているでしょ。与謝野鉄幹なども犯行の直前までその計画にどっぷりつかっていた。そういった矛盾を見つける眼を持って東京に出たのでしょう。

 だから、明治法律学校、今の明治大学に通ってからも、朝鮮人の留学生たちと親しくしたのでしょう。

 そしてなんといっても一番のきっかけは1919年の3.1の弾圧がありましたが、その導火線となった2.8の宣言があって、その人たちの弁護をしたことでしょう。布施が弁護をしたのは控訴審からですから1920年ぐらいからだと思います。その頃、布施辰治は「自己革命の告白」をして、まあいろいろな見方がありますけど、一番虐げられている人に「力を貸す」のではなく、一緒に闘う、仮に何かできなくても痛みは一緒に受けるということだとおもうのですが、そこからあたりだと思うのですね。朝鮮人関連の事件にとりわけ熱心に取り組むのは。

 (1919年2月8日、東京で朝鮮人留学生らに よって独立宣言式が行われた。これが3・1運動の導火線になったとされている)

 辰治自身は無罪を勝ち取ったといっておりますが、最近私はそれに疑問を持っています。資料で確かめられないのですが、官憲は「内乱予備罪」で処罰しようとし、それを「出版法」という微罪でとどめたというのが、事実なのではないかと思っています。「出版法」なら、罰金か執行猶予で済みますから。完全無罪ということは、あの当時の情勢のもと、ありえなかったと思うのです。「出版法」に擬律することにより「内乱予備罪」から逃れるというのは、弁護側にとって有力な戦略だと思います。重罪から逃れたことを無罪と表現したのでしょう。

−1923年に布施先生は朝鮮に渡っていますね。

 大石 訪朝目的としては義烈団関係の弁護もありましたし、衡平社(日本の水平社と同様、被差別民の解放を求める団体)の創立大会への参加もありました。また当時の帰郷運動、いわゆるナロードニキの運動ですね。学生たちに夏休みに農村に帰って文化運動をしなさいよということを新聞社がみんな競争のように奨励しているのです。中でも一番力を入れていた東亜日報の支援で、帰郷運動の一環としての講演会が各地で開かれ、そこに布施が講師として招かれたのです。

 (つづく、聞き手は金東鶴・在日本朝鮮人人権協会事務局長=「人権と生活」冬号)

[朝鮮新報 2008.3.3]